京都大学総合博物館 – アニメーションで見る機械メカニズム模型の動き

2007年 7月 9日 に紹介した「京都大学総合博物館 – アニメーションで見る機械メカニズム模型の動き」が移転されていました。

移転先は、↓
  機械メカニズム模型のアニメーション

スパコン「富岳」、前倒して運用を開始

2020年4月7日、理化学研究所は、2021年度に運用開始を予定し兵庫県神戸市ポートアイランドにて開発・整備中の次世代スーパーコンピューター「富岳」を、新型コロナウィルスに対抗する研究のために、前倒して運用を開始すると発表しました。

能力は、完成時の10~20%程度ですが、それでも計算速度は国内最速になる見込みです。

次世代スパコン「富岳」で新型コロナ研究へ 利用前倒し – 産経ニュース 2020/4/7

「あふれ出る最終兵器感」「かっこよすぎ」 スパコン『富岳』、感染症研究で試験運用前倒し(2020年4月9日)|BIGLOBEニュース

多様な未来製作所(@atene_gakudo)/2020年04月08日 – Twilog

ロシュの生化学経路図

Roche – Biochemical Pathways ロシュの生化学経路図

工学の発展

Jr.,John D. Anderson=著, 織田 剛=訳 : 空気力学の歴史 (京都大学学術出版会, 2009) p.383.

当時[:1920年代]のアメリカでは、工学部を学士で卒業した学生の多くは微積分法の基本をほとんど理解していなかった。ところがプラントルとジューコフスキーが構築した理論空気力学を理解するためには、複素変数と微分方程式を理解することが必要だった。

工学の誕生 (イギリス)

イギリスにおける 工学の誕生

Jr.,John D. Anderson=著, 織田 剛=訳 : 空気力学の歴史 (京都大学学術出版会, 2009) p.74.

ジョン・スミートン (1724~92年)である。彼は土木技師を職業にしていた。工学が尊敬に値する挑戦としてイギリス社会に受け入れられるようになったのは彼の功績であった。

人の網

Jr.,John D. Anderson=著, 織田 剛=訳 : 空気力学の歴史 (京都大学学術出版会, 2009)では、同時代の人の間のつながりについて言及されている。一例をあげると:

・ニュートンの「プリンキア」は、ハレー(ハレー彗星発見者)の資金援助の元に出版された (p.48)。

・ベルヌーイは、オイラーの数学家庭教師であった (p.61)。

・ナビエは、フーリエの弟子であり且つ友人であった (p.115)。

・J・J・トムソンは、レイノルズの授業を受けていた (p.140)。

・ラングレーの親友がアレキサンダー・グラハム・ベル(彼はまた1907年に航空実験協会を組織する)であった (p.240)。

・プラントルの弟子
 - H・ブラジウス (p.333)
 - テオドール・マイヤー (p.335)
 - ヤコブ・アッケーレート (p.338)
 - アドルフ・ブーゼマン (p.338, p.547)
 - セオドア・フォン・カルマン (p.338, p.542)

killではdeathをリカバーできない

一試合あたりのkill数は 勝率と相関がない

一試合あたりの k/d は 勝率と相関がない

一試合あたりのdeath数は 勝率と有意に負の相関がある

トーク 2019年12月31日「松下村塾――吉田松陰と山尾庸三と工学の誕生」

水素チャンネルニュース 増刊トーク。

2019年12月31日 の増刊トーク。

水素チャンネルニュース 第52回 2019年12月31日号の記事ナンバー8、12月28日のAFP通信。「中国の「石炭の都」。、水素エネ社会構築へ注力。山西省大同市」といえば、石炭つながりで、明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業。松下村塾――吉田松陰と山尾庸三と工学の誕生です。ですが、監修の高木さんにお聞きしましょう。高木さん、どうですか?

* * *

【※以下は、話すうえでのメモです。実際に話した内容とは異なる部分があります】

さて、「松下村塾――吉田松陰と山尾庸三と工学の誕生」ということですが、2015年に世界文化遺産に『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業』が登録されました。

韮山反射炉や、八幡製鉄所などと合わせて、萩の松下村塾も登録されました。

松下村塾が異色に見えますが、理由は、塾頭の 吉田 松陰 が、「工学教育論」を唱えていたことです。「工学教育論」とは、工学の教育施設を設立し、在来の技術者を総動員して自力で我が国の産業近代化の実現しようという考えです。

門下の伊藤 博文 は、その後、イギリスを代表する工業都市・グラスゴーに留学し、初代 工部卿になりました。

伊藤 博文 は、ともにグラスゴーに留学した山尾 庸三 とともに、1871年に、東京大学工学部の前身のひとつである工学寮を設立します。山尾 庸三 は、松下村塾出身ではありませんが、留学前から二人は見知った仲であったと言われています。二人で、塙検校こと塙 保己一 の息子である、国学者・塙 忠宝(ただとみ) を、暗殺したと言われます。

工学寮が学生を得た1873年、初代都検(教頭、実質的な校長)として、グラスゴーから、ヘンリー・ダイアー (Henry Dyer)が赴任します。ヘンリー・ダイアーは、熱力学で有名なウィリアム・ランキンの弟子です。山尾と同時期にグラスゴーの同じ学校に所属し、山尾を見かけたこともありました。なお、1873年において、工部省のトップである工部卿は、伊藤 博文 。工部省の次官である工部大輔(だいすけ)は、山尾 庸三 です。

これが我が国における工学の誕生で、西洋ではまだ学問の一つと見なされていなかったエンジニアリングに、学問としての地位を与えたものでした。

これを基盤にした戦前技術界に、先の大戦における敗戦を経て技術力の不足を盛り返そうとした結果が、昭和の終わり頃の我が国の技術界であったと思います。

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はい、ありがとうございました。

お相手は、新浜メチスと、マスターの高木でした。

皆様、よいお年をお迎えください。またね!

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