トーク 2019年12月31日「松下村塾――吉田松陰と山尾庸三と工学の誕生」

トーク 2019年12月31日「松下村塾――吉田松陰と山尾庸三と工学の誕生」

水素チャンネルニュース 増刊トーク。

2019年12月31日 の増刊トーク。

水素チャンネルニュース 第52回 2019年12月31日号の記事ナンバー8、12月28日のAFP通信。「中国の「石炭の都」。、水素エネ社会構築へ注力。山西省大同市」といえば、石炭つながりで、明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業。松下村塾――吉田松陰と山尾庸三と工学の誕生です。ですが、監修の高木さんにお聞きしましょう。高木さん、どうですか?

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【※以下は、話すうえでのメモです。実際に話した内容とは異なる部分があります】

さて、「松下村塾――吉田松陰と山尾庸三と工学の誕生」ということですが、2015年に世界文化遺産に『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業』が登録されました。

韮山反射炉や、八幡製鉄所などと合わせて、萩の松下村塾も登録されました。

松下村塾が異色に見えますが、理由は、塾頭の 吉田 松陰 が、「工学教育論」を唱えていたことです。「工学教育論」とは、工学の教育施設を設立し、在来の技術者を総動員して自力で我が国の産業近代化の実現しようという考えです。

門下の伊藤 博文 は、その後、イギリスを代表する工業都市・グラスゴーに留学し、初代 工部卿になりました。

伊藤 博文 は、ともにグラスゴーに留学した山尾 庸三 とともに、1871年に、東京大学工学部の前身のひとつである工学寮を設立します。山尾 庸三 は、松下村塾出身ではありませんが、留学前から二人は見知った仲であったと言われています。二人で、塙検校こと塙 保己一 の息子である、国学者・塙 忠宝(ただとみ) を、暗殺したと言われます。

工学寮が学生を得た1873年、初代都検(教頭、実質的な校長)として、グラスゴーから、ヘンリー・ダイアー (Henry Dyer)が赴任します。ヘンリー・ダイアーは、熱力学で有名なウィリアム・ランキンの弟子です。山尾と同時期にグラスゴーの同じ学校に所属し、山尾を見かけたこともありました。なお、1873年において、工部省のトップである工部卿は、伊藤 博文 。工部省の次官である工部大輔(だいすけ)は、山尾 庸三 です。

これが我が国における工学の誕生で、西洋ではまだ学問の一つと見なされていなかったエンジニアリングに、学問としての地位を与えたものでした。

これを基盤にした戦前技術界に、先の大戦における敗戦を経て技術力の不足を盛り返そうとした結果が、昭和の終わり頃の我が国の技術界であったと思います。

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はい、ありがとうございました。

お相手は、新浜メチスと、マスターの高木でした。

皆様、よいお年をお迎えください。またね!

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