携帯機器への充電という日々の課題――変化する、人間とエネルギーの関係・個人と社会インフラの関係

出張で同じだった T氏は、宿がカプセルホテルでもいいが、カプセル内に電源コンセントがないのは論外なのだそうだ。人は、寝床に携帯機器の充電機能を強く求めるようになった。

人は(人が人であるためには)、外部エネルギー源を必要とする生物である

人が松明(たいまつ)・ランプ・カンテラを持たなくなってから、携帯電話が普及するまで、外部エネルギーの使用機器は、定置式であった。

現在は、高度な機能を携帯できるまでの小型化、省エネルギー化とバッテリーの性能向上により、スマートフォンをはじめとした携帯機器が実現・普及した。携帯機器においても外部エネルギーは使用される。携帯機器への充電は、一定の地位を占める日々の課題である。

私たちは、自分の腹の空き具合と同様に、携帯機器のバッテリー残量を気にしなくてはいけない。

 ・携帯機器そして、そのバッテリーが、個人の所有物であり、

 ・携帯機器の稼働状態が、個人の能力(:携帯機器の能力も含めた総合的能力)を増減させる

のであるから、そうなるのは当然である。

電源の確保問題(:電力会社にとっては、配電の問題)は、これまで電力会社や建設業者が解決してきた課題、新しい電気機器を導入する際の一過性の課題であった。これが、個人にとっての永続的な課題になることは、個人と社会インフラの関係を変化させるだろう。

電力会社による大送配電網という社会インフラへの依存を意識した人々は、その依存を深める個人と、依存を弱めようとする個人の2種類に分かれるだろう。つまり、社会インフラの、いままで機械的だった部分に、人間集団による思想が組み込まれることになる。

人類は、どの用途で外部エネルギー源に依存しているか

外部エネルギーの用途は、

第一には、食品調理である。

第二には、暖房である。

第三には、武器である。

第四には、明かりである。

第五には、移動である。

第六には、生産である。

第七には、情報である。

第八には、食品保管 (冷蔵・冷凍)である。

第九には、冷房である。

(人類が実現した順番を意識して配列した)

見事

清水建設の CM の「きっと、見事にできるよね」から、以下を想起した:

見事=良い は、哲学である。

真と美の融合

今井 彰 : プロジェクトX リーダーたちの言葉 (文藝春秋, 2001) p.144.

「図面を描いて美しいと感じる飛行機、それが最も性能の良い飛行機である」土井 [:土井武夫、3式戦「飛燕」を設計] が生涯大切にした航空機設計士としての不変の哲学だった。

人類はその誕生の瞬間からして、その存在を外部エネルギー源に依存している

石井 彰 : エネルギー論争の盲点―天然ガスと分散化が日本を救う (NHK出版, 2011) pp.38-40, 54.

「人類はその誕生の瞬間からして、その存在を外部エネルギー源に依存している」と述べたが、この点については、ハーヴァード大学の自然人類学者リチャード・ランガムの次のような仮説による *1。

 動物学的に見て、人類、すなわちホモ・エレクタス以降ホモ・サピエンス(現生人類)までのホモ属をほかの動物全体と比べた場合、その身体的特徴は、消化のための口腔、顎、小腸・大腸、肝臓等の消化器官が相対的に小さく、逆に体の中で、重量当たりで最もエネルギーを必要とする脳が相対的に非常に大きいことである。

 つまり、加熱調理を始めたホモ・エレクタスは、火という外部エネルギー源を道具として利用することによって、消化器官の負担軽減、縮小が可能となり、その余裕で脳の大型化が初めて可能となった。ランガムは、この加熱調理による消化の大きな効率化と、その果実としての脳の大型化が相互作用して、加速度的に人類の身体的な進化が促進されたとしている。

注 1 リチャード・ランガム『火の賜物』NTT出版、二〇一〇年。

朝や昼間のミネルヴァの梟

ある事柄が、それが実現する寸前まで極めて低評価であったが、実現後に高評価になることがある。

開業前、新幹線は世界三大無用の長物だと言われた。

ライト兄弟以前に、ウィリアム・トムソン(ジュール=トムソン効果等の功績。初代ケルヴィン卿)は、「空気より重い機械が空を飛べるわけがない」と言った。

これは、ミネルヴァの梟は、朝や昼間には飛ばない、のだと比喩できる。

ミネルヴァの梟は、黄昏の到来とともにのみ、その翼を拡げる ――朝や昼間には飛ばない。

科学用語における言葉選び

人間・人類による宇宙の見方は、言語によって共有される。この共有によって累積性を発揮する仕組みが、「科学」という仕組みである。

言葉は、宇宙の〈姿〉即ち〈ある見方による写像〉に合わせ、定義され分割されるべきである。それが達せられるように言葉の定義は修正されるべきだが、それが成っている範囲において、累積性のために言葉の定義は同一であるべきである。

であれば言葉は定義だけで存在するのか。科学が単独に存在するのであれば、そうであろう。

しかし、科学は、知の全てではない。ミネルヴァの梟は、夕暮れに飛び立つ。宇宙の実際的課題に取り組む最前線は、厳密な科学の領域ではない。そこにおいて仮説を立てる過程は、従来知からの類推、あるいは従来知を足の一つにした帰納である(その際に、科学が要求する厳密さは省かれる)。それを可能にする手段のひとつが、科学用語における適切な言葉選びである。知全体における、メタ知識同士の整合性である。

初出:
Facebook 2014/11/ 2 22:21