書道の作品は、単なる文字情報ではない。
漢文の臨書では、日本人は意味を完全には掴めないので、意味を推量するため頭を使いつつ、作品をよく見て字の形・勢い・配置・墨色、さらには紙・表装にわたって情報を集めようとするだろう。
臨書に対し、日本人は、中国人よりもローコンテクストな(文字情報への依存度が低い)向かい方をすることになる。
書道の作品は、単なる文字情報ではない。
漢文の臨書では、日本人は意味を完全には掴めないので、意味を推量するため頭を使いつつ、作品をよく見て字の形・勢い・配置・墨色、さらには紙・表装にわたって情報を集めようとするだろう。
臨書に対し、日本人は、中国人よりもローコンテクストな(文字情報への依存度が低い)向かい方をすることになる。
闘争、即ち主体間の相互作用は、2つの安定をもたらす。
動的安定と、将来の社会成長を予感させることによる安定である。
関連:
カール・マルクスがいう「闘争」、すなわち戦略的状況(主体同士の相互作用)。
— TAKAGI-1 高木 一 (@takagi1) 2014年3月28日
2016年11月の週末、新海 誠 監督作品 映画「君の名は。」(2016)を見て参りました:
● 「結び」は、時間そのもの。
「結び」について、私は、
・現在時における、空間次元のつながり
は、常に認識していましたが、この作品で、改めて
・時間次元でのつながり
について、認識しました。
映画『君の名は。』三葉のおばあちゃんの名言。“結び”というワードが深い。 | かずのUPノート
寄り集まって形を作り、
捻れて絡まって、時には戻って、
途切れ、またつながり。
それが組紐。それが時間。それが結び。…
糸を繋げることも結び
人を繋げることも結び
時間が流れることも結び
● 奇跡の条件
最終的に、町長の決断が町を救った。トップはいるべきである。
トップがいても奇跡が必ず起こるわけではないが、最高意思決定が合議制では、奇跡は起こせない。
● 飛騨弁は、関西弁に近い
北陸方言の影響を受けているからだそう。
自分の行動は、神話やその頽落した形式である物語によってすでに語られていることの拙劣な模倣に過ぎない。
――セネカ「文学なき生活は生ける人間の死であり埋葬である」に対する
Abraxas さんの解説より。
そうであれば、ヒトの思考・行動は(ほぼ全て)、和歌に詠まれていることになる。
和歌という31音の圧縮された形態に、ヒトの思考・行動が表現されていることは、日本語の利点である。そのような言語体系を、人類は手にしているのだ。
ちょっと進んだ。現実逃避のお昼に出かけよう… pic.twitter.com/HpOeKd6owM
— 室田伊緒 (@iomuu) 2016年11月1日
室田女流の揮毫を見ていて思ったのだけれど、字を「∠」の形に整えていらっしゃる。「笑」と「無」が分かりやすい。
そのために、「笑」・「無」の第1・2角の「ノ一」は、「レ」の形になる(2角を続けた上で、全体を30度左回転させる)。
また、「期」・「笑」の左下の払い「ノ」は、高さを縮める必要から、払わずに「丶」にしたり、「ノ」を寝かせている。
ここで工夫しているのが「邪」と「福」の最も右下の角である。字の全体を「∠」の形にするためには、縦方向に大きくしなければならないが、それだけでは、字が左方向に倒れそうになる。そこで、「邪」では右方向に大きめに膨らませることで、「福」では「田」を「▽」字型にしたうえで「9」のように口を閉じないことで処理している。
「上町台地に地震が来たらうちなんか一瞬で終わるで」と脅される
— 大阪星光学院bot (@osakaseiko_bot) 2015年9月15日
2016/11/ 5 放送の NHK「ブラタモリ」は、テーマが、大阪でした。
もちろん上町台地が出てきました。番組では、大阪城の北詰付近で撮影していましたが、大阪星光学院 の運動場(台地の上)とテニスコート(台地の下)の間の石垣のほうが断然 迫力が上です。
ネットで探しても写真があまりなかったのですが、分かりやすいのが、この写真↓ かな:
uemc_34DSC_0311.jpg (623×935)
上町台地(天王寺七坂等)2 – 愛染坂?学園坂 – [ 大阪および近畿の景観 ~ Scene of Osaka and Kinki ~ ]
奥に緑色が広がるテニスコートを見た後に視線を左に向けると、そこに垂直に大きな石垣があることが分かります。写真左上方に黒く立っているのが運動場の柵で、その下の草が、運動場の地面から茂る草です。高低差がよく分かると思います。
アイドルグループ「欅坂46」のナチス風衣装が問題になっています。この衣装は、彼女たちの歌「サイレントマジョリティ」をイメージした衣装のようです:
歌詞 サイレントマジョリティー – 欅坂46 – 歌詞 : 歌ネット
(閑話休題: どうして「No! と言いなよ! サイレントマジョリティ」なのか、どうして「何か言いなよ! サイレントマジョリティ」ではないのか、が私が歌詞について疑問なところです。関連: 反対だけでなく、賛成も表明しよう)
歌詞は、反・管理社会=反・社会主義=反・〈日本の戦前・戦中の統制派・革新官僚の思想〉です。ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)風衣装という発想は、選択肢の一つとして必然でしょう。
サイレントマジョリティとナチスというと、この詩が想起されます:
マルティン・ニーメラーの言葉に由来する「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」
彼らが最初共産主義者を攻撃したとき – Wikipedia [2016年11月13日 (日) 09:46 の版]
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
この詩は、反・ナチス風衣装を意味しません。むしろ「彼らが最初に欅坂46を攻撃したとき、」と読めるのです。
歴史は帝王学である。学校教育の歴史は帝王学にならないかもしれないが、学校教育で習得した歴史の知識なしで、帝王学になる歴史の知識を理解し、考えることはできないだろう。 #*
— TAKAGI-1 高木 一 (@takagi1) 2012年9月7日
日本史における帝王学の例のひとつは、徳政論争だろう。
二昔前ぐらいだろうか、休日の読売テレビの昼・夕方といえば、「難波金融伝・ミナミの帝王」であった。
1作が、およそ1時間半。ほぼ毎週である。これは、大学の講義に相当する。
関西人は、「ミナミの帝王」という講義を受講し、消費者金融リテラシーと法律の使い方を修得してきたのである。