給食費払ってるから、給食に「いただきます」を言う必要ない(いただくわけじゃないから)っていう親からの意見を受けて、太鼓とかの合図で食べるようにした、って話聞いて、あ、この国は滅びるんだな、って思ったよね。
— うさみん (@usamin405) 2012, 5月 2
「いただきます」とは、食品に関わる非特定の対象(調理者、サプライチェーン、農家、地球、太陽。屠殺された生命。そして、食文化・食器・刃物・調理エネルギー・食糧生産システムに関わる全て)への敬意・敬語である。
特定あるいは非特定の対象への敬意あるいはその表現は、複雑な世を単純な見かけにする方法である。敬意を示せない者は、世の複雑さを知らない(そのような者は、いざという時に、高度なレベルの単純化ができない)。
例えば、
(1) 敬語は、主として、目下の者が目上の者に、意思を伝えるために使われる。
目上・目下とは秩序であり、目下の者は、秩序によって拘束もされつつ、守られている。また組織に属することにより、目下の者は、利益を得ている。秩序・組織は複雑である。この複雑さのなかで、目下の者が目上の者に意思を伝えるための道具が敬語である。敬語という言い換えの規則に従えば、複雑さによる縛りは大いに緩くなり、即ち、単純な見かけとなり、目下の者は、発言を許可されるのである。
(2) ある敬意は、安定のために払われる計上されないコストに対し、払われる。
安定のために払われるコスト(トラブルの未然防止・早期復旧、責任所掌を超えた価値の作り込み、など)を金銭的に扱おうとすれば、採算が成立しない場合がある。それでも事業が実施されている場合、そのようなコストの無視と敬意によって、採算が成立している。そして消費者は、その事業を単純に、他の事業と同列に見ることができる。
敬意がなくては、単純な事業に見かけがならず、その事業によるサービスを受けるのに条件が付くなど複雑化する。