陸軍統制派が目指したのは国家による統制(官僚でいう、企画院を中心とした革新官僚の考え方)でした。社会主義的、ソビエト連邦、ナチスドイツ(第三帝国)的といえるでしょう。
月: 2016年10月
講義「ミナミの帝王」
二昔前ぐらいだろうか、休日の読売テレビの昼・夕方といえば、「難波金融伝・ミナミの帝王」であった。
1作が、およそ1時間半。ほぼ毎週である。これは、大学の講義に相当する。
関西人は、「ミナミの帝王」という講義を受講し、消費者金融リテラシーと法律の使い方を修得してきたのである。
「山崎の戦い」を勉強する
羽柴秀吉が明智光秀を討った「山崎の戦い」(1582)は、秀吉が圧勝したイメージがある。
しかし、兵の数は、秀吉方は2万6千、明智方は1万6千で、秀吉方は明智方の1.6倍なのに、損害は秀吉方 3300人に対し明智方 3000人で秀吉方の方が大きい。
ただし、何よりも大事なことだが、戦いに勝ったのは、秀吉である。
参考文献:
家村 和幸 : 図解雑学 名将に学ぶ 世界の戦術 (ナツメ社, 2009)
* * * *
山崎は、淀川と天王山に両側を抑えられた隘路である。天王山には最初、光秀が物見を置いていたが、秀吉の先遣隊により駆逐され、天王山は秀吉が抑えることになる。
山崎の隘路には西国街道が通っているが、山崎を京都方向に抜けた先で分岐し、西国街道と久我畷の二本の街道になる。そして、街道と直角に、円明寺川が流れていて、両街道には橋が架かっている。
光秀の戦術構想は、別働隊に、天王山の山腹を迂回させ山崎の大阪側に出させることで、秀吉を、山崎の地で、京都側と大阪側から包囲殲滅するものであった。しかし、天王山に秀吉が有力な兵を配置したことで、別働隊の動きは察知され、別働隊は足止めされることになる。
そのような中、秀吉方は、山崎の隘路を抜けていくが、第一隊は、そのまま久我畷に入り、円明寺川を挟んで、光秀方と戦闘になる。
このとき、光秀方は、京都方から、西国街道(京都方)と久我畷という二本の街道をつかって、兵を押し出し、西国街道(大阪方)という一本の街道しか使えない秀吉方に対し、優位な戦闘を仕掛けることができたと思うが、光秀方はこれを実施しない。光秀方の動きが遅いのだが、秀吉方は、天王山から光秀方の動きが見えるので、安心して、山崎の隘路を抜けることができる。
第一隊が、隘路を抜けた直後で、西国街道(京都方)と久我畷に分かれなかったのは、兵力分散をさせないことが第一義であろうが、隘路で兵を停滞させないこと、隘路に近い街道分岐点で戦闘をして数の優位を使えなくなることを防いだのだろう。
対して、光秀方は、久我畷が戦場になったため、西国街道を守っていた部隊が、久我畷へ転進する。光秀方部隊が久我畷へ転進したくなるように、秀吉方は、第一隊の兵力を調整したかもしれない。
そのうちに、山崎の隘路を抜けた秀吉方の第二隊が、西国街道を進み、円明寺川の橋を渡ったところで、久我畷方向へ転進し、久我畷で秀吉方第一隊と戦っている光秀方の側面を突く。
ただ、大きく迂回した第二隊の到着には、1時間半ほどがかかり、それまでは秀吉方は数の優位を持てず、損害がかさんだ。
(姫路城の金銀の兵への放出は、士気を高め、離反を防いだが、中国大返しで消耗していた兵個人のパフォーマンスを向上させる効果は限定的だったのだろう。しかし、戦いに勝ったのは、秀吉である。(離反しない)数の優位は、極めて重要である。)
なお、西国街道に位置する光秀の本隊は、この時点において、久我畷になだれ込み、秀吉の第二隊の後方を突くこともできただろうが、光秀の本隊は動かなかった。
光秀の本隊は、遊軍になっていたのである(*)。
光秀の判断が遅れたこともあるが、すでに秀吉方の兵力が、山崎の隘路を通過している状態で、久我畷になだれ込んでも、秀吉方に包囲されるし、西国街道を進んでも、久我畷と二正面作戦になり、兵数で劣る光秀方には不利であった。
* 秀吉の本隊もあまり戦闘には参加していないが、秀吉の本隊は、街道分岐点に陣取り、天王山から入ってくる情報を分析し、前線に指示しやすい位置にいたし、もはや心配ないが、もし前線を圧迫された際も、それを支える位置 [表現を替えれば、逃亡兵を生じさせない(ような雰囲気をつくる)位置] にいた。
* * * *
結論:
(離反しない)数の優位は、極めて重要である。
その上で、兵力で勝っていた秀吉は、
・山崎の隘路の京都側に、大兵力を展開できるか、
・光秀方にいかに奇襲をさせないか
が、重要であった。
そのために、制高点であり、側面・背面である天王山を抑えることは、極めて重要であった。
光秀方としては、兵力不利な中、山崎でなら秀吉に勝てる可能性が高く、そこまで兵を進めたのだが、もう一歩、すなわち天王山を重視すべきだった。
ここで思い出したのが、この言葉:
野村 進 : 調べる技術・書く技術 (講談社現代新書, 2008) p.113.
[ボクシングの輪島氏の言葉:]
「あいつら、九〇メートルまではダッシュするけど、あとの一〇メートルは(力を抜いて)流すんだよな。おれは違うもん。一〇〇メートル全力でダッシュして、それから流す。たった一〇メートルの差だと思うだろ? ところが、これが積もり積もって、あとで効いてくるんだよ」
この「一〇メートルの差」こそが、世界チャンピオンになれる者となれない者との分かれ目なのだと、彼は言いたかったにちがいない。
「淀みに浮かぶうたかた」と災害
「ハチイチ世代」が、日経1面に
(新産業創世記)ニッポンを生きる(1)ハチイチ世代 主役の時 「成長+α」に価値 :日本経済新聞
記事中で日本で紹介されていたのは、マザーハウスの山口絵理子社長(35歳)、freeeの佐々木大輔社長(36歳)、オーマイグラスの清川忠康社長(34歳)。
3~4年前、とあるお偉方との会食で、「1981年生まれ、いわゆるハチイチ世代です」と自己紹介したら、全くわかってもらえなかったのですが、これで認知度が上がるかな。
タイ王国 国王の崩御の報に際し
タイ王国 国王の崩御の報に際し、国王と国民の関係と、頻発する政変・クーデタを知るに、畏れ多くも 考えたことは:
タイ国王は、〈タイたること〉とタイ国民をつなぐ媒体であるのではないか、ということである。〈タイたること〉が国王の肉体・行為を通じて、タイ国民につながっているのだ。
〈タイたること〉は、 タイ国王の精神の粋に存在する(担保されている)のかもしれない。
ここで、思い出すのは、「国家は自然なものではない」( 水村 美苗 : 日本語が亡びるとき (筑摩書房, 2008) p.108.)である。
タイ王国(に限らずどの国であっても)という人工物を成立させている仕組みのひとつが、国王なのである。
プミポン国王とタイ王室の威厳といえば、1992年の民主化運動の際、軍と民主化運動のトップを呼びつけたときの彼らの所作が印象に残ってるわ。当時の映像がこれ。
Thailand Black May 1992 https://t.co/NbXp1cdYB3 @YouTubeさんから— ぱらか・マヤ (@KK_KL_PP) 2016年10月13日
統治形態が一致していないタイと日本を同様に考えることは思考の精度が落ちるが、我が国の 天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である。
象徴とは、媒体の、とてもドライな、無機的な表現であるように思える(象徴とすれば、政治的意味合いを排した表現になる)。
「土人」発言問題について
(1) 大阪府警機動隊員の「土人」発言の擁護論に対し、擁護論が表に出てくることが問題だという意見は、それこそが問題である。
(2) 沖縄の基地問題を解決する1つのピースは、「土人発言の事実」より、むしろ「何が機動隊員に土人発言をさせたのか(状況・背景)」である。
「直江状」朗読
特集 ムービー 直江兼続 役・村上新悟さんによる「直江状朗読(※一部抜粋)」(5分38秒)|NHK大河ドラマ『真田丸』
日本史の、世界史にない魅力の一つは、史料を読めることだと思うのだけれど、音読に触れるのは珍しい。
さて、「直江状」。「一つ、… 。一つ、…。」と、一見、箇条書き風なのだけれど、ちゃんとストーリーがあることに気づいた。
震災は大きな「話題」であり、情報の濁流で、消えない
「君の名は」(2016)が大ヒットだということで、ネタばれ情報を探して考えたこと:
映画に描かれた世界は虚構である。虚構を近似的に実現するには、個人の能力(と、支援情報システム。ただ、システムの出力を解釈するのは個人である)が鍵だろう。
つまり、「シン・ゴジラ」の「君たちも、好きにしろ」である。
東日本大震災から 5年経ち、それにつながる映画が立て続けに公開された。あの震災は、大きな「話題」であり、情報の濁流で、消えない(濁流の跡が消えないのではなくて、意識に載っているか否かに関わらず、濁流として存在し続けるのだ)。
震災時の高校生が、大学卒業する時期に、今はある。
東日本大震災(2011年)を高校生で経験した世代が社会人になる、2016年~2020年が楽しみだ。私は、インド・パキスタン核実験(1998年)を高校2年生の時に経験した、1981年生まれ。 ###
— TAKAGI-1 高木 一 (@takagi1) 2011年5月26日