敬意・敬語


「いただきます」とは、食品に関わる非特定の対象(調理者、サプライチェーン、農家、地球、太陽。屠殺された生命。そして、食文化・食器・刃物・調理エネルギー・食糧生産システムに関わる全て)への敬意・敬語である。

特定あるいは非特定の対象への敬意あるいはその表現は、複雑な世を単純な見かけにする方法である。敬意を示せない者は、世の複雑さを知らない(そのような者は、いざという時に、高度なレベルの単純化ができない)。

例えば、

(1) 敬語は、主として、目下の者が目上の者に、意思を伝えるために使われる。

目上・目下とは秩序であり、目下の者は、秩序によって拘束もされつつ、守られている。また組織に属することにより、目下の者は、利益を得ている。秩序・組織は複雑である。この複雑さのなかで、目下の者が目上の者に意思を伝えるための道具が敬語である。敬語という言い換えの規則に従えば、複雑さによる縛りは大いに緩くなり、即ち、単純な見かけとなり、目下の者は、発言を許可されるのである。

(2) ある敬意は、安定のために払われる計上されないコストに対し、払われる。

安定のために払われるコスト(トラブルの未然防止・早期復旧、責任所掌を超えた価値の作り込み、など)を金銭的に扱おうとすれば、採算が成立しない場合がある。それでも事業が実施されている場合、そのようなコストの無視と敬意によって、採算が成立している。そして消費者は、その事業を単純に、他の事業と同列に見ることができる。

敬意がなくては、単純な事業に見かけがならず、その事業によるサービスを受けるのに条件が付くなど複雑化する。

アジアにおける「フランス革命」と「自由と繁栄の弧」、役割を変容させて2度目の働きをする日本

フランス革命初期における革命家たちの言に、私は、「八紘一宇」をみた:

安達 正勝 : 物語 フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで (中央公論新社, 2013〈底本は中公新書(2012)〉) No.226/4054.

(アナカルシス・クローツのコルドリエ・クラブでの演説)

人々はボルドーからストラスブールに行くのと同じように、パリから北京へと行くだろう。船の連なる大洋が沿岸を結ぶだろう。東洋と西洋は連盟公園で抱擁しあうだろう。

これが実現したのは、大東亜戦争後のアジア諸国の独立後であった。すくなくとも、アジア諸国の独立が成って、はじめて実現可能なのであった。

ここから、私は、次のように考えた:

アジアにおける「フランス革命」の前半において、その主体となったのは、日本であった。

大きな出来事は、明治維新(日本における近代国家の成立、日本国民の自覚の誕生)と大東亜戦争(アジア植民地体制の破壊)である。振り返れば、日本(大日本帝国)は、東洋の革命国家であった。

アジアにおける「フランス革命」の後半は、アジア人の手によって行われた。日本は、経済(実)を成長させ続け、同時に、環境問題などの課題解決を続けてきた。

今、日本は、価値観外交――普遍的価値(自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済)に基づく「価値の外交」――という考えのもと、「自由と繁栄の弧」政策を進めている。

欧州における「フランス革命」とアジアにおける「フランス革命」により価値観を同じくする、
 ・経済と課題解決の経験の大国であるEUと日本
 ・高度成長するインド・アジア
が強固に結ばれた姿は、フランス革命の当初に革命家たちが願った姿であり、それは人類普遍に願われた一つの姿である。