俗の良いもの

[正]が(正しい言葉と正しい知識が)、世界の混沌とした知識を整理し、体系付けし、それらを総活用できるようになり、次の世界を造るのだと考えていた。

しかし、[俗]が、世界を生かし、その残滓が正なのだ。

ああ、ミネルヴァのフクロウは、夕暮れに飛び立つのだ。

[正]は、それに従うものではない。[正]は生み出され、後につづく者に残すものなのだ。先端の領域に身をおけば、特にそうである。

真・善・美 という重要な3概念がある。

[正]と[俗]という指標で見ると、

  [正] 真・善・美・〈俗の良いもの〉 [俗]

という並びになる。

〈俗の良いもの〉がもつ特徴のひとつは、歩み寄りの概念である。

たとえば、コミュニケーションである。

稲見 昌彦 : スーパーヒューマン誕生! 人間はSFを超える (NHK出版新書, 2016 〈底本はNHK出版新書(2016)〉) 位置No. 1071/2390.

コミュニケーションも言語や身体動作を介して、双方の知識をシンクするための行動と捉えることができる。

[正]から[俗]に向かう流れは、評論家の流れである。

反対に、[俗]から[正]に向かう流れは、当事者・担当者の流れである。

[俗]には、〈俗の良いもの〉と〈俗の悪いもの〉があるので、それに向き合うには知的な緊張感を持ち続けなければならない。

自らの相対化

押入に、高校の武道の時間に使った竹刀を見つけた。

数年ぶりに握り、構えて気づく:

剣とは、身体の拡張である。そして、剣=自らの身体 を見る行為(身体の拡張がなければ、なかなか体験できない)、さらに、その細長く、全周が外気に触れている様を見る行為により、自らを第三者的に見て、自らを相対化するのである。

さて、我が国の三種の神器は、八咫の鏡・草薙の剣・八尺瓊の勾玉である。勾玉が胎児をかたどっているならば、鏡・剣・勾玉は全て、自らを相対化する装置である。

国家は、自らを相対化して、仲良しグループによる統治機構でなくなるのだ。

「ヘルシング」の、この言葉が想起される:

平野 耕太: HELLSING 電子書籍版 (少年画報社) p.129.

ありがたいことに
私の狂気は
君達の神が
保障してくれると
いう訳だ

よろしい
ならば私も問おう

君らの神の
正気は

一体どこの
誰が保障して
くれるのだね?

初出:
Facebook 2016/ 4/10