都市づくりの復興計画は、総合的な復興計画とは切り離して早期に策定する。基本方針は災害後 1~2週間で策定

熊本地震から1週間が経ちました。今紹介することが必要な文章だと考えましたので、ブログで、急ぎ紹介します:

越澤 明 : 復興計画 – 幕末・明治の大火から阪神・淡路大震災まで (中公新書, 2005) pp.245-247.

[阪神・淡路大震災では、]しかし、一方では、都市復興のビジョン(復興の目標と復興事業の守備範囲、被災の状況把握、復興が必要な地区の選定理由、復興事業の種類、道路・公園・広場等の公共用地の確保の必要性、減歩率のおおむねの見通し、行政主導で定めるものと住民主導で定めるものの区別、狭小宅地や高齢者に対する政策・配慮など)の公表と説明が遅れた。

 復興計画には都市計画と住宅に関する復興ビジョン(…)と、産業・生活・福祉・文化などを含めたすべての行政計画を包含する復興計画(地方自治法の総合計画に相当する。総花的・八方美人的になりがちであり、焦点がぼやけてしまう)の二つが存在する。兵庫県、神戸市ともに、前者単独の発表を抑えて、後者の形で復興計画を公表した。このことは誤りであると筆者は考える。

 災害復興に際しては、まず、都市計画と住宅に絞ってビジョンと方針を早急に、一ヵ月以内に、荒削りであっても素案の形で公表し、それと同時に、建築制限を行い、住民の理解、議会と世論の反応を踏まえながら成案としていくやり方が望ましかった。

 松谷春敏(当時の兵庫県都市住宅部計画課長、現・国土交通省都市・地域整備局街路課長)は一九九八(平成一〇)年刊行の兵庫県都市住宅部の復興記録『ひょうごの復興都市づくり』の中で「都市復興所感」と題し、震災から二週間後に課内でできていた都市復興基本計画の骨格が県全体の復興計画、市町復興計画との調整のため、素案発表が三月(六月の誤植か?)にずれこんだことを「くれぐれも悔やまれる」、「住民やマスコミ向けの情報発信が十分ではなかった」とし、早期の復興方針の発表、「報道官のような専門の情報発信組織を設ける」べきことを指摘している。

 このような教訓があったため、東京都が一九九七年に『東京都都市復興マニュアル』を策定した際、筆者は委員・幹事・作業部会員であったが、都市づくりの復興計画を総合的な復興計画とは切り離して早期に策定する必要性を繰り返し指摘した。その結果、震災から一~二週間で都市復興基本方針を策定し、一~二ヵ月で都市復興基本計画(骨子案)を公表し、その後、復興都市計画原案等の作成・周知、都市計画決定を経た後、六ヵ月以内に都市復興基本計画を策定するというプロセスが東京都の復興マニュアルに盛り込まれた。