リケ女とダイバシティー、世界は持ち寄るものであって分けるものではない

今日、見かけた文章は、「リケ女 (リケジョ、理系女子)」と「ダイバシティー」が関連づけてあった。

一見したときには、矛盾に感じた。この歌を思い出した:

  科学者に「女子」の冠つけないで 讃えるようになれよ この国

しかし、しばらくして思い直した。ダイバシティーは多様性を受容・重要視するのだ。多様性のひとつを表現する言葉が「リケ女」なのだ。「リケ女」は、理系の考え方・経験と、女性の考え方・経験をもっている。

デジタル大辞泉のダイバーシティーの定義2には、「企業で、人種・国籍・性・年齢を問わずに人材を活用すること。こうすることで、ビジネス環境の変化に柔軟、迅速に対応できると考えられている。」とある。

しかし、これは分かりやすく表現したものであって、ダイバシティーにおいて実際には、「人種・国籍・性・年齢は問われる」のだ。ただ、それが不利に扱われることはなく(多様性の受容)、また有利に解される(多様性の重要視 *)。

さて、『科学者に「女子」の冠つけないで 讃えるようになれよ この国』。

これは、条件を付けて褒めるな、ということである。

世界は持ち寄るものであって、分けるものではない。

補足:
* 多様性の重要視する意味でのダイバシティーを、極端に、統計学レベルの規模で実施すると、アファーマティブ・アクション(積極的改善措置)、即ち〈結果の均等〉になる。(関連: AAは機会の平等に一致するか)