3月11日をどうするか

篠田麻里子を勝手に心配し3月11日のネット上での作法を考える | ニコニコニュース という記事が話題になったが、「3月11日」を忌日にしないため、すなわち「3月11日」に何らかの社会活動が停止しないようにするために、どうすればよいのかを考えてみた。

※お断り: 筆者の周囲に、3月11日の震災による被害者はいません。当事者ではない精神の持ち主として、そのような精神を活用して、自由にこの文章を書かせていただきました。

結論:
 3月11日でない日に、不謹慎でない程度に暗くない大規模な行事を実施する。

遺族の社会に対する大きな願いは、社会において被害者・惨事を忘却させないことにあるのではないか。よって、社会的な影響力がある鎮魂行事は必要である。しかし、それを暗い行事にすると社会が暗くなる。よって、それを不謹慎でない程度に暗くない行事にする。

この鎮魂行事を実施する日取りは、3月11日を避ける。3月11日に実施する鎮魂は、個人・家族を主体に捉えて(しめやかに)実施するようにする。

例:
・1月17日に起きた阪神淡路大震災の鎮魂の意味をこめ、12月に「神戸ルミナリエ」が実施されている。

・お盆は、親族が集まる楽しい機会である。そして、お盆は、死者の命日ではない。

・大東亜戦争戦死者の慰霊行事は、それぞれの命日ではない 8月15日に集約されている。

疑問:
9月1日の関東大震災は、日本社会がもつ精神として、どのように処理されたのだろうか。

「今日は疲れたから、その辺で食べて帰るか」

駅前に、ちゃんと食べられる飲食店(居酒屋でない)が多い街は、よい街である。

疲れて帰ってきた時など重宝するのであろう。何もしたくない時に、代行してくれるサービスは価値が高い。でも、そのサービスを受けに、わざわざ出かけはしない。

よって、そのようなサービス提供は、大きな交通流に沿う場所でのみ可能である。

組織制度改革のやり方と定期的な必要性

カバネ – Wikipedia (2011年4月19日 (火) 06:12‎ の版)

姓の制度は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇が制定した八色の姓によって有名無実化されていき、臣、連ですら序列の6、7番目に位置付けられ、その地位は低下した。代わって、天皇への忠誠心がある有能な人材には新たに作られた真人(まひと)・朝臣(あそみ、後に「あそん」。更に後世には「あっそん」とも)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)などの姓が与えられた。しかしながら、奈良時代を過ぎるとほとんどの有力氏族の姓が朝臣になってしまい、八色の姓も形式的なものに変質してしまう。

如何なる困難に遭遇しても これに打ち勝って進むことが日本国民の有する伝統的精神

山本 五十六 海軍少将(当時)。

1934年、ロンドンにおける海軍軍縮予備交渉に出席の際、日本に向けて発信された無線電話による音声より:

【 山本 五十六  肉声 】 – YouTube   開始 2分2秒から

不慮の災厄に遭遇されまして 殊に肉親やお子さん方を亡くされました多数の方々に対しまして 謹んでお見舞いを申し上げる。

しかしながら
如何なる困難に遭遇しましても これに打ち勝って進むことが日本国民の有する伝統的精神でなければならないのでありまして
したがってこの天災による絶大なる損害に対しても これに屈せられるがごときことないことは確信いたしておるのでございまするとともに
この復興の一日も速やかならんことを祈る次第であります。

食足世平

食足世平

企業理念|会社情報|日清食品

食は人間の命を支える一番大切なものです。
文化も芸術も思想も、すべては食が足りてこそ語れるものです。
食のあり様が乱れると、必ず国は衰退し、争いが起こります。
食が足りて初めて世の中が平和になるのです。

安藤百福 – Wikipedia (2012年2月1日 (水) 16:39 の版)

自伝『魔法のラーメン発明物語』等によれば、昭和20年代は深刻な食糧不足のため、アメリカ合衆国から送られた援助物資の小麦粉を用いた「粉食」(うどん、ラーメン、すいとん、ビスケット、パンなどの、様々な粉料理の総称)を厚生省が奨励していた。しかし結果論としてパン等が多いため、安藤は、東洋文化であるめん類をもっと奨励すべきだと厚生省課長に提案した。課長は、うどんやラーメンは量産技術が無く流通ルートも確立していないためやむなくパンが主体になっている実情を説明し、麺文化の振興には自ら研究してはどうかと奨めた。当時、安藤は既存事業から手を広げる余裕がなく、話が出たのみで終わったが、これが後にインスタントラーメン開発の契機になったという。

天才・高階通憲

2012年2月15日放送のNHK大河ドラマ「平清盛」の 高階 通憲 を見て、思い出したこと:

私はまだ誰もしたことがないやりかたでこの世界をみてみたい – 東京エスカレーターガール

優れた批評家は、それが超個人的な感情に基づくものであれ、
凡人離れした感性によるものであれ、独自のセンスによるものであれ、
緻密な構造分析の結果であれ、超人的な博識に基づくものであれ、あるいはその全部であれ、
他のひとには真似できないやり方で、世界を読み解いてくれる。

天才は退屈しない
―福本 伸行「天」より

世の中を動かす三要素

料理レシピサイト「クックパッド」を運営する クックパッド株式会社 創業者・代表執行役社長 佐野 陽光 氏 は、『世の中を動かす三要素』として、

 テクノロジー
 個人の認識が変わること
 政策

を挙げている。

上阪 徹 : 600万人の女性に支持されるクックパッドというビジネス (角川SSC新書, 2009) p.37.

「いろいろ考えて、世の中を動かす要素って、三つじゃないか、と思ったんですね。ひとつはテクノロジー。例えば電話ができた、車ができた、テレビができた、と。そしてもうひとつは、個人の認識が変わること。みんながこうだ、と思ったら、そっちの方向に変わっていくでしょう。そしてもうひとつが、政策、だと思ったんです。道の幅はこれにしましょう、右側通行にしましょう、と決めた瞬間に世の中は変わる」

徳川将軍の在位期間をカテゴライズする

1603年~1868年までの 265年間 のうち、

将軍在位 50年間

 1名: 家斉(11代)

将軍在位 26年~29年間

 5名: 吉宗(8代)・家綱(4代)・綱吉(5代)・家光(3代)・家治(10代)

将軍在位 14年~18年間

 3名: 秀忠(2代)・家慶(12代)・家重(9代)

将軍在位 7年間

 1名: 家茂(14代)

将軍在位 1年~4年間

 5名: 家定(13代)・家宣(6代)・家継(7代)・家康(初代)・慶喜(15代)

徳川将軍一覧 – Wikipedia (2011年8月19日 (金) 11:05‎ の版) を参考した。

徳川氏

徳川氏 (2012年1月3日 (火) 06:47‎ の版)

徳川氏の系譜は、系図上は清和源氏新田氏の支流得川氏の末裔と位置付けられており、従って本姓は源姓であり、源朝臣という。一説には、当初朝廷の許可では徳川氏は源姓ではなく藤原姓の氏族として認められていたが、家康が江戸幕府を開くに当たって、幕府の長たる征夷大将軍は源氏という慣例があったために、系図の粉飾が行われたのだとも言うが、実はそれより先の1567年に三河守を受領するために、すでに系図の粉飾が行われている。
三河守を受領する前の家康の官位は蔵人佐という低いものであったが、三河統一を成し遂げ名実とともに三河の支配者となった時点で、三河守受領のために必要な位階を家康は持っていなかった。三河守受領の為の位階は従五位下に相当するが、当時の慣例では、従五位下の位階を与えられる姓の系統は限られており、当時藤氏長者であった近衛前久に掛け合い藤原姓を名乗った。その後源姓に復帰した。

なお、のちに三河国に興った松平氏は、松平清康のとき、世良田氏の後裔を称する。清康の孫である家康は、朝廷に働きかけて世良田氏=得川氏=新田氏=清和源氏の末裔であるとの公認を得ようと目論むが、世良田氏ではなく、世良田義季(得川義季)の末裔ではあるが、藤原氏支流と自称する徳川氏として、改姓の勅許を受けたとされる。のちに系譜を改めて整理し[7]、徳川氏は世良田氏直系の源姓で得川氏を復活した氏族であるということにされ、家康は征夷大将軍に就任したとする。得川氏 – Wikipedia (2010年7月25日 (日) 11:04‎ の版)

徳川将軍家

 徳川御三家 – Wikipedia (2011年9月1日 (木) 07:59‎ の版)

水戸家は頼房が駿河家断絶後の1636年(寛永13年)に徳川賜姓された家であり、他の2家よりも官位・官職の点では下ではあるが、朝廷に対して次期将軍家の奏聞をし、また、江戸常勤であることなどから五代綱吉のころから御三家と呼ばれる。

「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」ことになっており、…なお最後の15代将軍慶喜は水戸家出身だが、御三卿の一橋徳川家への養子を経て将軍家を継承した。

  御三卿 – Wikipedia (2011年11月15日 (火) 04:44‎ の版)

第8代将軍徳川吉宗が次男・宗武、三男・宗尹を取り立てて別家させたのが御三卿の起こりである。さらに、吉宗の長男である第9代将軍徳川家重が、自身の次男・重好を別家させることで、三家の体制が確立した。家格は徳川御三家に次ぐ。