自分の行動は、神話やその頽落した形式である物語によってすでに語られていることの拙劣な模倣に過ぎない。
――セネカ「文学なき生活は生ける人間の死であり埋葬である」に対する
Abraxas さんの解説より。
そうであれば、ヒトの思考・行動は(ほぼ全て)、和歌に詠まれていることになる。
和歌という31音の圧縮された形態に、ヒトの思考・行動が表現されていることは、日本語の利点である。そのような言語体系を、人類は手にしているのだ。
自分の行動は、神話やその頽落した形式である物語によってすでに語られていることの拙劣な模倣に過ぎない。
――セネカ「文学なき生活は生ける人間の死であり埋葬である」に対する
Abraxas さんの解説より。
そうであれば、ヒトの思考・行動は(ほぼ全て)、和歌に詠まれていることになる。
和歌という31音の圧縮された形態に、ヒトの思考・行動が表現されていることは、日本語の利点である。そのような言語体系を、人類は手にしているのだ。
ちょっと進んだ。現実逃避のお昼に出かけよう… pic.twitter.com/HpOeKd6owM
— 室田伊緒 (@iomuu) 2016年11月1日
室田女流の揮毫を見ていて思ったのだけれど、字を「∠」の形に整えていらっしゃる。「笑」と「無」が分かりやすい。
そのために、「笑」・「無」の第1・2角の「ノ一」は、「レ」の形になる(2角を続けた上で、全体を30度左回転させる)。
また、「期」・「笑」の左下の払い「ノ」は、高さを縮める必要から、払わずに「丶」にしたり、「ノ」を寝かせている。
ここで工夫しているのが「邪」と「福」の最も右下の角である。字の全体を「∠」の形にするためには、縦方向に大きくしなければならないが、それだけでは、字が左方向に倒れそうになる。そこで、「邪」では右方向に大きめに膨らませることで、「福」では「田」を「▽」字型にしたうえで「9」のように口を閉じないことで処理している。
「上町台地に地震が来たらうちなんか一瞬で終わるで」と脅される
— 大阪星光学院bot (@osakaseiko_bot) 2015年9月15日
2016/11/ 5 放送の NHK「ブラタモリ」は、テーマが、大阪でした。
もちろん上町台地が出てきました。番組では、大阪城の北詰付近で撮影していましたが、大阪星光学院 の運動場(台地の上)とテニスコート(台地の下)の間の石垣のほうが断然 迫力が上です。
ネットで探しても写真があまりなかったのですが、分かりやすいのが、この写真↓ かな:
uemc_34DSC_0311.jpg (623×935)
上町台地(天王寺七坂等)2 – 愛染坂?学園坂 – [ 大阪および近畿の景観 ~ Scene of Osaka and Kinki ~ ]
奥に緑色が広がるテニスコートを見た後に視線を左に向けると、そこに垂直に大きな石垣があることが分かります。写真左上方に黒く立っているのが運動場の柵で、その下の草が、運動場の地面から茂る草です。高低差がよく分かると思います。
アイドルグループ「欅坂46」のナチス風衣装が問題になっています。この衣装は、彼女たちの歌「サイレントマジョリティ」をイメージした衣装のようです:
歌詞 サイレントマジョリティー – 欅坂46 – 歌詞 : 歌ネット
(閑話休題: どうして「No! と言いなよ! サイレントマジョリティ」なのか、どうして「何か言いなよ! サイレントマジョリティ」ではないのか、が私が歌詞について疑問なところです。関連: 反対だけでなく、賛成も表明しよう)
歌詞は、反・管理社会=反・社会主義=反・〈日本の戦前・戦中の統制派・革新官僚の思想〉です。ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)風衣装という発想は、選択肢の一つとして必然でしょう。
サイレントマジョリティとナチスというと、この詩が想起されます:
マルティン・ニーメラーの言葉に由来する「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」
彼らが最初共産主義者を攻撃したとき – Wikipedia [2016年11月13日 (日) 09:46 の版]
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
この詩は、反・ナチス風衣装を意味しません。むしろ「彼らが最初に欅坂46を攻撃したとき、」と読めるのです。
歴史は帝王学である。学校教育の歴史は帝王学にならないかもしれないが、学校教育で習得した歴史の知識なしで、帝王学になる歴史の知識を理解し、考えることはできないだろう。 #*
— TAKAGI-1 高木 一 (@takagi1) 2012年9月7日
日本史における帝王学の例のひとつは、徳政論争だろう。
二昔前ぐらいだろうか、休日の読売テレビの昼・夕方といえば、「難波金融伝・ミナミの帝王」であった。
1作が、およそ1時間半。ほぼ毎週である。これは、大学の講義に相当する。
関西人は、「ミナミの帝王」という講義を受講し、消費者金融リテラシーと法律の使い方を修得してきたのである。
羽柴秀吉が明智光秀を討った「山崎の戦い」(1582)は、秀吉が圧勝したイメージがある。
しかし、兵の数は、秀吉方は2万6千、明智方は1万6千で、秀吉方は明智方の1.6倍なのに、損害は秀吉方 3300人に対し明智方 3000人で秀吉方の方が大きい。
ただし、何よりも大事なことだが、戦いに勝ったのは、秀吉である。
参考文献:
家村 和幸 : 図解雑学 名将に学ぶ 世界の戦術 (ナツメ社, 2009)
* * * *
山崎は、淀川と天王山に両側を抑えられた隘路である。天王山には最初、光秀が物見を置いていたが、秀吉の先遣隊により駆逐され、天王山は秀吉が抑えることになる。
山崎の隘路には西国街道が通っているが、山崎を京都方向に抜けた先で分岐し、西国街道と久我畷の二本の街道になる。そして、街道と直角に、円明寺川が流れていて、両街道には橋が架かっている。
光秀の戦術構想は、別働隊に、天王山の山腹を迂回させ山崎の大阪側に出させることで、秀吉を、山崎の地で、京都側と大阪側から包囲殲滅するものであった。しかし、天王山に秀吉が有力な兵を配置したことで、別働隊の動きは察知され、別働隊は足止めされることになる。
そのような中、秀吉方は、山崎の隘路を抜けていくが、第一隊は、そのまま久我畷に入り、円明寺川を挟んで、光秀方と戦闘になる。
このとき、光秀方は、京都方から、西国街道(京都方)と久我畷という二本の街道をつかって、兵を押し出し、西国街道(大阪方)という一本の街道しか使えない秀吉方に対し、優位な戦闘を仕掛けることができたと思うが、光秀方はこれを実施しない。光秀方の動きが遅いのだが、秀吉方は、天王山から光秀方の動きが見えるので、安心して、山崎の隘路を抜けることができる。
第一隊が、隘路を抜けた直後で、西国街道(京都方)と久我畷に分かれなかったのは、兵力分散をさせないことが第一義であろうが、隘路で兵を停滞させないこと、隘路に近い街道分岐点で戦闘をして数の優位を使えなくなることを防いだのだろう。
対して、光秀方は、久我畷が戦場になったため、西国街道を守っていた部隊が、久我畷へ転進する。光秀方部隊が久我畷へ転進したくなるように、秀吉方は、第一隊の兵力を調整したかもしれない。
そのうちに、山崎の隘路を抜けた秀吉方の第二隊が、西国街道を進み、円明寺川の橋を渡ったところで、久我畷方向へ転進し、久我畷で秀吉方第一隊と戦っている光秀方の側面を突く。
ただ、大きく迂回した第二隊の到着には、1時間半ほどがかかり、それまでは秀吉方は数の優位を持てず、損害がかさんだ。
(姫路城の金銀の兵への放出は、士気を高め、離反を防いだが、中国大返しで消耗していた兵個人のパフォーマンスを向上させる効果は限定的だったのだろう。しかし、戦いに勝ったのは、秀吉である。(離反しない)数の優位は、極めて重要である。)
なお、西国街道に位置する光秀の本隊は、この時点において、久我畷になだれ込み、秀吉の第二隊の後方を突くこともできただろうが、光秀の本隊は動かなかった。
光秀の本隊は、遊軍になっていたのである(*)。
光秀の判断が遅れたこともあるが、すでに秀吉方の兵力が、山崎の隘路を通過している状態で、久我畷になだれ込んでも、秀吉方に包囲されるし、西国街道を進んでも、久我畷と二正面作戦になり、兵数で劣る光秀方には不利であった。
* 秀吉の本隊もあまり戦闘には参加していないが、秀吉の本隊は、街道分岐点に陣取り、天王山から入ってくる情報を分析し、前線に指示しやすい位置にいたし、もはや心配ないが、もし前線を圧迫された際も、それを支える位置 [表現を替えれば、逃亡兵を生じさせない(ような雰囲気をつくる)位置] にいた。
* * * *
結論:
(離反しない)数の優位は、極めて重要である。
その上で、兵力で勝っていた秀吉は、
・山崎の隘路の京都側に、大兵力を展開できるか、
・光秀方にいかに奇襲をさせないか
が、重要であった。
そのために、制高点であり、側面・背面である天王山を抑えることは、極めて重要であった。
光秀方としては、兵力不利な中、山崎でなら秀吉に勝てる可能性が高く、そこまで兵を進めたのだが、もう一歩、すなわち天王山を重視すべきだった。
ここで思い出したのが、この言葉:
野村 進 : 調べる技術・書く技術 (講談社現代新書, 2008) p.113.
[ボクシングの輪島氏の言葉:]
「あいつら、九〇メートルまではダッシュするけど、あとの一〇メートルは(力を抜いて)流すんだよな。おれは違うもん。一〇〇メートル全力でダッシュして、それから流す。たった一〇メートルの差だと思うだろ? ところが、これが積もり積もって、あとで効いてくるんだよ」
この「一〇メートルの差」こそが、世界チャンピオンになれる者となれない者との分かれ目なのだと、彼は言いたかったにちがいない。
(新産業創世記)ニッポンを生きる(1)ハチイチ世代 主役の時 「成長+α」に価値 :日本経済新聞
記事中で日本で紹介されていたのは、マザーハウスの山口絵理子社長(35歳)、freeeの佐々木大輔社長(36歳)、オーマイグラスの清川忠康社長(34歳)。
3~4年前、とあるお偉方との会食で、「1981年生まれ、いわゆるハチイチ世代です」と自己紹介したら、全くわかってもらえなかったのですが、これで認知度が上がるかな。