東北新幹線 弘前ルート

Web東奥・連載/「はやて」への軌跡

2002年11月18日(月) 東奥日報 連載
■新幹線建設促進運動の30年 「はやて」への軌跡

◆第2部 長すぎた助走
■ (2)東西対立/八戸と弘前 争奪戦

本県では太平洋側、日本海側の争いが火を噴いた。八戸、弘前両市は六〇年代末、早くも新幹線誘致へ動きだす。「東回り・西回り対立」である。

 七一年、東北新幹線は盛岡までの着工が決定した。東西対立はいったん沈静化したが、盛岡以北は人口や輸送量、東北線の経路から、東回りが有力視されていた。

 「しかし北海道と最短時間で結ぶため、盛岡から秋田県の大館、青森を経由してまっすぐ青函トンネルに入る案が浮上した」。同年、八戸市議から県議に転じた元八戸市長・中里信男は語る。

 八戸は岩手県側を、弘前は秋田県側を巻き込み、猛烈な誘致運動が再燃した。自他ともに調整型と認める知事・竹内俊吉は苦慮した。「休戦協定」を提案するが双方とも受け入れない。国鉄や県議会の度重なる自重要望もむなしかった。

 県企画部で長く新幹線に携わり、「ミスター新幹線」の異名をとった元部次長・奈良聖は、時の首相・田中角栄への陳情の模様を回想する。竹内は事態の打開のため、田中の協力を仰いでいた。田中は予想外だった上越新幹線実現の立役者と目されていた。

 「田中の『目白御殿』には二度ほど行った。彼はしきりに『分かった、分かった』『建設には、オレがつくった石油財源を使う』と言った。そして『お前ら、東回りをのめよ、これをやるから』と、目の前でぐいっと、『日本海新幹線』の線を引いてみせた」

 七月二十五日、竹内は東回りの東北、西回りの日本海新幹線の同時着工を目指す調停案を提示した。西回り陣営は「裏付けのない話」と取り合わなかった。

 八月二十九日、自民党総務会長で鉄道建設審議会会長を兼ねる鈴木善幸(岩手県)が、田中との協議を踏まえ、西回り陣営の陳情団に対し「東北新幹線は東回り」「日本海新幹線も同時に基本計画組み入れ」と発言した。鈴木は東北新幹線を仙台から盛岡へ延ばした立役者とみなされていた。

 この発言を言質に九月六日、西側陣営は調停案をのみ、東回りが確定した。論争は終わった。同九日、県論統一に伴い、「県新幹線建設促進期成会」が発足した。

 東北など五新幹線の整備計画案は鉄道建設審議会への諮問・答申を経て、十一月十三日に整備計画が正式決定した。

 一方、日本海新幹線は「羽越新幹線」に名を変え、中央、四国など他の十一路線とともに十一月十五日、基本計画が決定した。

Web東奥・連載[「はやて」への軌跡]INDEX (2002/11/9~11/27)