教養は

教養は、

(1) 知的所業のラストXマイル(ラスト・エックス・マイル)をつなぐ術である。

(2) 狭い情報を起点に、広い世界の一部を知るための術である。

これは、以下の思考から、帰納的に導かれた:

(1) 知的所業の、成果への最終接続、すなわち先端とは:

□ 世の中すべて、働き(=試行錯誤)・仮説・(後付けの)理屈だらけだ。(既存の)理論は、ラストXマイルを繋げることができない。

補足:
「ラストXマイル」は、「ラストワンマイル」から発想した言葉である。

「ラストワンマイル」は、「インターネット接続の最終行程」(Wikipedia, 2013年3月25日 02:05 の版) を指す。“ワンマイル”は、短いという意味を帯びている。「ラストワンマイル」は、それが短いにも関わらず、実現が困難である・コストが高い、という意味を持っている。

「ラストXマイル」は、“ワンマイル”ではなく、“Xマイル”とすることにより、短いかどうかを言及しない。「ラストXマイル」の長短は、その課題にあたる人の、課題と自らが持つ専門性の近さ、既往知識の探索・学習の進展度合いに依る。

科学用語における言葉選び

宇宙の実際的課題に取り組む最前線は、厳密な科学の領域ではない。そこにおいて仮説を立てる過程は、従来知からの類推、あるいは従来知を足の一つにした帰納である(その際に、科学が要求する厳密さは省かれる)。それを可能にする手段のひとつが、科学用語における適切な言葉選びである。

哲学と現実、科学と技術

ヘーゲルに言わせれば、哲学は、常に現実を後追いしているに過ぎない。

数学者や科学者達が必ずしも思い出したがらない事実だが、技術の相当数はまず成功した後にその理論的理解が生まれたのである。

(2) 広がり、という(1)のための手段、そしてその喜び:

学校法人 東洋英和女学院

(村岡 花子) 教育とは…知識を獲得するための勉強、また一つのものを創作していく過程においてその努力と研究の中に、無限の喜びを発見し得る感受性の育成である (引用 2014/11/12)

専門家は、開いた存在である

欧米では「情報と情報をつないで、そこに新たな意味を見いだせる人」が専門家として認められます。

洞察力ってのは「一見関係ないように見える二つの事柄の間に関係性を見つけること」だよ。


学術・教養は「結び技」である

学術・教養は「結び技」である。社会に出た後、取り扱う商品や専門技術の範囲内に閉じこもらず、それらを連携させて、全体を推進させていくためには、学術・教養の修養が必要である。

希望と誇り

希望と誇りは、目標と現状認識(形而上を含む)である。

(より詳しくは、 現状+誇り=現状認識 である。)

よって、希望と誇りは、認識上の、事の終点と起点であり、事を成す 可・不可に大いに関わる。

「猛獣論」では、「集合無意識に捕らわれた現実から理想に向かおうとして生じる力」を〈猛獣〉だと表現したが、ここでは拡張して、「現実から理想に向かおうとして生じる力」を〈猛獣〉だと考える。

希望(=理想)と誇りは、〈猛獣〉の前足と首筋であるのだ。希望と誇りがあれば、〈猛獣〉は存在する。その〈猛獣〉の強さを決定づけるのが、希望と誇りである。

複数の良いものが経済的な制約に縛られている状態

〈どちらも良いものであるAとBが、経済的な制約に縛られている状態(つまり、Aを伸ばそうとすればBを抑えなければならない、逆もまた真なり、の状態)〉

は、問題処理の到達状態として優秀である。

そのような状態は、動的であるが、破滅的な不安定ではない。

関連:

社会 3篇

 

 

宣言

世界は、泡沫(うたかた)である。我々は生き残り、将来の秀でた人のために理論を、一般の人のために実例を、優れた形態で残すことにより、人類の累積性を高め、将来の人類の生き残りを図るべきである(それによって、また人類の累積性が高まる)。

我々は、可能な限り前進する。将来の人類は、さらにはるかに前進するであろう。

ホロコースト

ドイツ第三帝国のユダヤ政策は、もとは、より緩やかな卑民政策であった。すなわち、国外移住政策であった。

好んで住み慣れた土地を離れたがる人間はいないものです。… アメリカ開拓には卑民政策という側面があった。いや、それが、本質といってよい。

しかし、ドイツ第三帝国は、ソビエト連邦領土を得られず、マダガスカル(マダガスカル計画)も一度は手にした(仏ヴィシー政権)ものの、イギリスと自由フランスに奪取された。

ゲットーは、ユダヤ人の富の搾り取りと緩慢な絶滅の手段として、すでに存在したものの、それは、あくまで、移動のための一時的な集積拠点であった。移動先の目処がつかなくなり、その後、ユダヤ政策は、強制収容所による労働を通じた絶滅、絶滅収容所のよる直接的な絶滅(ラインハルト作戦)の政策になる。

ホロコースト – Wikipedia

敬意・敬語


「いただきます」とは、食品に関わる非特定の対象(調理者、サプライチェーン、農家、地球、太陽。屠殺された生命。そして、食文化・食器・刃物・調理エネルギー・食糧生産システムに関わる全て)への敬意・敬語である。

特定あるいは非特定の対象への敬意あるいはその表現は、複雑な世を単純な見かけにする方法である。敬意を示せない者は、世の複雑さを知らない(そのような者は、いざという時に、高度なレベルの単純化ができない)。

例えば、

(1) 敬語は、主として、目下の者が目上の者に、意思を伝えるために使われる。

目上・目下とは秩序であり、目下の者は、秩序によって拘束もされつつ、守られている。また組織に属することにより、目下の者は、利益を得ている。秩序・組織は複雑である。この複雑さのなかで、目下の者が目上の者に意思を伝えるための道具が敬語である。敬語という言い換えの規則に従えば、複雑さによる縛りは大いに緩くなり、即ち、単純な見かけとなり、目下の者は、発言を許可されるのである。

(2) ある敬意は、安定のために払われる計上されないコストに対し、払われる。

安定のために払われるコスト(トラブルの未然防止・早期復旧、責任所掌を超えた価値の作り込み、など)を金銭的に扱おうとすれば、採算が成立しない場合がある。それでも事業が実施されている場合、そのようなコストの無視と敬意によって、採算が成立している。そして消費者は、その事業を単純に、他の事業と同列に見ることができる。

敬意がなくては、単純な事業に見かけがならず、その事業によるサービスを受けるのに条件が付くなど複雑化する。

アジアにおける「フランス革命」と「自由と繁栄の弧」、役割を変容させて2度目の働きをする日本

フランス革命初期における革命家たちの言に、私は、「八紘一宇」をみた:

安達 正勝 : 物語 フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで (中央公論新社, 2013〈底本は中公新書(2012)〉) No.226/4054.

(アナカルシス・クローツのコルドリエ・クラブでの演説)

人々はボルドーからストラスブールに行くのと同じように、パリから北京へと行くだろう。船の連なる大洋が沿岸を結ぶだろう。東洋と西洋は連盟公園で抱擁しあうだろう。

これが実現したのは、大東亜戦争後のアジア諸国の独立後であった。すくなくとも、アジア諸国の独立が成って、はじめて実現可能なのであった。

ここから、私は、次のように考えた:

アジアにおける「フランス革命」の前半において、その主体となったのは、日本であった。

大きな出来事は、明治維新(日本における近代国家の成立、日本国民の自覚の誕生)と大東亜戦争(アジア植民地体制の破壊)である。振り返れば、日本(大日本帝国)は、東洋の革命国家であった。

アジアにおける「フランス革命」の後半は、アジア人の手によって行われた。日本は、経済(実)を成長させ続け、同時に、環境問題などの課題解決を続けてきた。

今、日本は、価値観外交――普遍的価値(自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済)に基づく「価値の外交」――という考えのもと、「自由と繁栄の弧」政策を進めている。

欧州における「フランス革命」とアジアにおける「フランス革命」により価値観を同じくする、
 ・経済と課題解決の経験の大国であるEUと日本
 ・高度成長するインド・アジア
が強固に結ばれた姿は、フランス革命の当初に革命家たちが願った姿であり、それは人類普遍に願われた一つの姿である。

人による人の絶滅、マオリ族によるモリオリ族の絶滅

ジャレド・ダイアモンド=著, 倉骨 彰=訳 : 銃・病原菌・鉄 (上) (草思社文庫, 2012) pp.95-96.

 一八三五年十一月十九日、ニュージーランドの東五〇〇マイル(約八〇〇キロ)のところにあるチャタム諸島に、銃や棍棒、斧で武装したマオリ族五〇〇人が突然、舟で現れた。十二月五日には、さらに四〇〇人がやってきた。彼らは「モリオリ族はもはやわれわれの奴隷であり、抵抗する者は殺す」と告げながら集落の中を歩きまわった。数のうえで二対一とまさっていたモリオリ族は、抵抗すれば勝てたかもしれない。しかし彼らは、もめごとはおだやかな方法で解決するという伝統にのっとって会合を開き、抵抗しないことに決め、友好関係と資源の分かち合いを基本とする和平案をマオリ族に対して申し出ることにした。

 しかしマオリ族は、モリオリ族がその申し出を伝える前に、大挙して彼らを襲い、数日のうちに数百人を殺し、その多くを食べてしまった。生き残って奴隷にされた者も、数年のうちにマオリ族の気のむくままにほとんどが殺されてしまった。チャタム諸島で数世紀のあいだつづいたモリオリ族の独立は、一八三五年十二月に暴力的に終わりを告げたのである。モリオリ族の生き残りは、そのときの様子をこう話している。「(マオリ族は)我々をまるで羊みたいに殺しはじめました。……(われわれは)恐れ、藪に逃げ込み、敵から逃れるために地べたの穴の中やいろいろな場所に身を隠しました。しかし、まったくだめでした。彼らはわれわれを見つけては、男も女も子供もみさかいなく殺したのです」。

ワンオフな時代と私の思索の対象

現在は、ワンオフな時代である。

過去の知識は急速に通用しなくなり、道具の進歩は極めて速い。西暦 1000年に生まれた人と西暦 1020年に生まれた人の人生はほぼ同じだっただろうが、西暦 1970年に生まれた人と西暦 1990年に生まれた人の人生は全く異なるだろう。

よって、世代という視点だけでも、世界は、複雑化している。

この複雑化を、スケールメリットをもった大きなまとまりを維持しながら、うまく活かす国(ただし、国だけ限らない)が栄え、生き残る。そして、それができない国は没落する。そして、没落した国の国民からは、安全・安心が奪われるだろう。

これまでは、国民の代表者(政治においても、経済活動においても)が、国民の意志を代弁し得ていた。しかし、ワンオフな時代には、国民の代表者は、国民の意志をカバーし得ない。国民の代表者が送った人生は、その20年後に生まれた人が送る人生を近似しない。国民の代表者が自分の20年前に何を考えていたのか思い出しても、それは、その20年後に生まれた人が今考えていることを近似しない。

今までどおりの〈国民の代表者〉制度による意思決定では、大きな検討漏れが生じる。今までどおりでは、世界の複雑化を活かせず、国は没落する。

そこで考えなければならない事柄が、「権力を分散して物事を進めるシステム」である。そして、それが「非常に貴重なもの」であることに留意しなければならない。

権力を分散して物事を進めるシステムっていうのは、非常に貴重なものであって大事にしていかなきゃいけないものと思う。
――権力を分散して物事を進める仕組み – アンカテ 抜粋

「非常に貴重なもの」であるということは、新たなものを創造してもそれがうまく機能する確率が非常に低いということだ。しかも、これは、現在の問題の現実の問題である。大きな失敗は許されない。急進を採用できないのである。

「非常に貴重な」「権力を分散して物事を進めるシステム」を現実的に改良し、世界の複雑化を活かせるシステムにすること――現在の私の思索の対象である以下を、まとめて表現するならば、これである。