ソチ五輪開会式

バレリーナのおねえさんがきれい。

「偉大なる成果と勝利の国なのです。」

「皆様はすばらしい競技や演技によって、私たちにインスピレーションを与えて下さるでしょう。」

「勝利を気高く祝い、敗北を気高く受入れる。」

「競争相手に敬意を払うことで、さらに素晴らしい勝利を目指すことができます。」

スラブ

ソチ五輪は、ソビエト・ロシア通じて初の冬季五輪であり、またモスクワ五輪から34年がたっている。開会式では、ロシア、すなわちスラブが前面に描かれた。

開国前夜以来、我が国の外交において、「アングロサクソンとスラブ」は重要なテーマであった。生産力のアメリカ(:アングロサクソン。同胞の英国の情報力も得た)、縦進性(:広大で過酷な)のロシア(:スラブ)。ヨーロッパの陳腐化に伴い、ヨーロッパから距離をもった国(米・露・独・日)が栄えた。その2極がアングロサクソンとスラブである。

フライトアテンダント

大阪空港(伊丹空港)から羽田空港へ、飛行機に乗った時に考えたこと:

飛行機のフライトアテンダント達は、飛行機内部に覆域に収める。

すなわち、航空機会社によって、

 - 航空機会社という組織によって醸成された乗務員共通の正義(内的正義)・組織によって獲得された権利とそれに伴う義務(外的正義)
 - 収集され・徹底的な掘り起こされ、整理・蓄積された知識

に基づく、

精神的・知識的な学習と、身体活動を伴う訓練、実務による経験によって、

 - インがドライヴされ
 〔気がつくべきところに気がつき(選択的注意集中)、深い洞察ができる〕

且つ

 - アウトがドライヴされた
 〔他者ではなく自分が動かねばならなく(行動の義務とそれを果たすために他者に妨げられない権利に伴う、強力且つ強制的な動機付け)、どう行動することが適切かを知る〕

主体群によって形成される、確実に機能し、確実に機能することを乗客に予想させる手厚い覆域である。

この覆域が、(特に初心者には)危険な、航空機という交通手段の、民生利用を実現するシステムの、ひとつの構成要素である。

関連:

エネルギーと情報の二元論的思考のまとめ

エネルギーは、“生命の実”に関する。その視点の先には、発展がある。メディア(コンテナ)に宿る。

情報は、“知恵の実”に関する。その視点の先には、幸福がある。コンテンツに宿る。

■ エネルギー

 ●エネルギーと発展

発展についてをご覧下さい。

 ●エネルギーとメディア(コンテナ)

我々が認識する全てのモノは、メディア(コンテナ)である。

メディアがヒト(人)に認識される、すなわち、無あるいは他のメディアとは異なるものとして認識されるには、それが低エントロピーでなければならない。つまり、低エントロピーに生産され、低エントロピー状態を維持できていなければならない。

関連:
発展について #生物個体や社会の本質

■ 情報

 ●情報と幸福

幸福は、情報によって表現されるだけではなく、情報上の概念として存在する。

 ●情報とコンテンツ

メディア(コンテナ)が醸す事柄を理想的に解読したのがコンテンツ(情報)である。それに接したヒトの神経系に生じる一連の信号が、それを近似する。

■ エネルギーと情報

 ● エネルギーと情報

発展について #エネルギーと情報をご覧下さい。

 ● 発展と幸福

発展(すなわち、エネルギーの有効な利用量の増加)による〈不可能の可能化〉は、幸福のひとつの見方である「ほんとうを確かめ合うことである」の“ほんとう”の追求をヒトの最重要課題に押し上げる。できない言い訳をすることができなくなったとき、ヒトは“ほんとう”を真剣に考えざるをえなくなる。

 ● エネルギー{:メディア(コンテナ)}と情報{:コンテンツ}と経済

発展について #経済をご覧下さい。

言い換えると、メディア(コンテナ)とコンテンツのやり取り(:変換)の連続の、ひとつの形態が経済であり、そのやり取りが個々の経済活動である。経済活動は一般化されることにより、連続である経済が高速化されている。例えば、牛であろうが、宝石であろうが、靴磨きサービスであろうが、それらは商品として売買(一般化された経済活動)される。やり取りの作法は様々であろうが、買い手が売り手に金銭を支払い、商品を得ることは共通である。それ故に売買行為の経験は積みやすく、慣れにより高速化していく。だから、ゆっくりで広がりのない〈地面を水が這う様(さま)〉ではなく、高速で広がりのある〈用水路〉なのである。

“生命の実”と“知恵の実”を共にもつには

『翠星のガルガンティア』に描かれた、「強力に進化した末に、倫理や人道どころか文化・情操も捨て去り、人間らしさを捨ててでも生存するための生体兵器群と化してしまった (Wikipedia)」人類の進化形態“ヒディアーズ”の様(さま)は、“生命の実”と“知恵の実”を共にもつことの困難さを示唆する。

この示唆は、逆説的に、“生命の実”と“知恵の実”を共にもつ、人を超えた対象の想像へと向かう。これを“神”の認識のひとつに挙げられる。

さて、人類が“生命の実”と“知恵の実”を共にもつには、どうしたらよいか。例えば、以下の方法を挙げられる:

・人が“生命の実”と“知恵の実”のごく一部を所有すること。すなわち、“生命の実”を持つものの創造、及び共生あるいは奴隷化。“知恵の実”を持つものの創造、及び共生あるいは奴隷化

・人類が自らを律する、例えば“幻”の創造――旧約聖書 箴言29章18節「幻がなければ民は堕落する。」(日本聖書教会 共同訳聖書実行委員会: 聖書 新共同訳 (日本聖書教会, 1988) p.(旧)1029.)

若年層を観測する

〈若年層が老後に備えて貯蓄を増やしていく、その貯蓄を銀行などが投資する、これが経済発展の一要因である〉という考え方が一般的なのだけれど、近年は、若年層の消費額減少による経済停滞が問題視されるようだ。

若年層は、貯め且つ消費する役割を期待され、そしてそのように駆動されようとするのであるが、そうは叶わぬ。

なぜ「そうは叶わぬ」なのか。若年層が搾取されているから、という理由は間違いではないが、事の本質に戻れば、逆説的に〈搾取する側〉の老年層の貯蓄・消費によって、経済発展すれば良いのだ。しかし、全年代を総合しても、貯蓄率は著しく低下している(*)。そうは叶わぬのである。

ここまで考えて、少し視点を変えて、結論を導いた。すなわち、:

全年代総合の未来が、先んじて若年層の現在に表れているのだ。

なぜならば、若年層は、浮き沈みが激しい。これは、経験的・人脈的・物的・金銭的な蓄えが少ないことによる重みのなさ(軽妙さ)、創造性・積極性に富むことによる敏感さに、起因する。

この結論は、座して待つための知識ではなく、観測のための知識である。若年層の観測を評価手法として、問題の原因を解決し、美点の源を栄えさせ、全年代総合の発展を図ることができる。

註:
* 加藤 久和 : 人口経済学 (日経文庫, 2007) pp.134-135.

 わが国は過去において高い貯蓄率を誇っていた国として国際的にも有名でした。統計データの接続などの関係で直接は比較できないものの、国民経済計算における家計貯蓄率をみると、1975年度では23.1%、また1985年度では15.8%でしたが、2005年度では3.1%にまで低下しています(1975、1985年度は68SNA、2005年度は93SNAの基準によります)。

学ぶ対象としての歴史がもつ 3つの側面

学ぶ対象としての歴史には、3つの側面がある:

1. 帝王学として (問題解決の際に頼る知識として)
2. 有職故実として (正統性を求める際に頼る知識として)
3. 暗記術として

補足:
側面 1. が強調されることが、最も望ましい。

関連:
「歴史」を学ぶ小・中・高校生が知っておいたほうがよいこと

発展について

発展とは、エネルギーの有効な利用量の増加である。即ち、負のエントロピー供給量の増加である。

Jeremy Rifkin=著, 柴田 裕之=訳 : 水素エコノミー―エネルギー・ウェブの時代 (NHK出版, 2003) p.58.

ホワイトはこれらの要因を考えあわせ、「ひとり当たりの年間エネルギー利用量が増えるにつれて、あるいはエネルギーに仕事をさせる道具の効率が上がるにつれて、文化は発展する」と結論づけている〔9〕。

9 White, Leslie A. The Science of Culture: A Study of Man and Civilization. New York: Farrar, Straus, and Company, 1949. pp.368-369.

■ 生物個体や社会の本質

生物個体や社会の本質は、内部のエントロピーを低くする(、それと同時に外部のエントロピーを増大させる)ことである。

Jeremy Rifkin=著, 柴田 裕之=訳 : 水素エコノミー―エネルギー・ウェブの時代 (NHK出版, 2003) p.67.

生体は秩序ある存在として安定した状態を保っているが、そのために、利用可能なエネルギーを糧としており、環境の総体的なエントロピーを増やしている。「生体の形成に見られる少量のエントロピーの局所的な減少は、宇宙全体のエントロピーのはるかに大きな増加と抱き合わせになっている」とブラムは言う〔19〕。

19 Blum, Harold F. Time’s Arrow and Evolution. Princeton, NJ: Princeton University Press, 1968. p.94. (ハロルド・ブラム著「自然の進化」みすず書房)

エネルギーの有効な利用量が、エントロピーを低くできる影響範囲を決める。利用量が少なければ、生物個体自身しかエントロピーを低くし続けられないが、利用量が多くなるほど、より広い範囲のエントロピーを低くし続けられる。

■ エネルギーと情報

(エネルギーの視点で捉えると、)情報は、低エントロピーなエネルギーを利用する〈方法=技術〉と〈権利=金銭〉である。

技術は、情報によって表現され、保存される。技術進歩の内容は、

  • エネルギーの新たな利用法 (新たな《エネルギーを利用した結果生じるもの》)
  • より多くのエネルギーの利用法
  • エネルギー効率の上昇

である。

なお、情報を保持する媒体のエントロピーは低い。紙・DVD・LSI などは、エネルギーを利用して、低エントロピーに生産される。脳や神経は、エネルギーを利用して、低エントロピーに保たれている。情報をもつ社会は、エネルギーを利用して、低エントロピーに保たれ、また、情報の送受信には、エネルギーが必要である。

■ 経済

経済は、エネルギーと情報の用水路である

《〈自然の恵み〉と〈それを変換した財・サービス〉》(低エントロピーなエネルギー)と、それらを利用するための情報を、行き渡らせる。

Jeremy Rifkin=著, 柴田 裕之=訳 : 水素エコノミー―エネルギー・ウェブの時代 (NHK出版, 2003) pp.74-75.

経済活動とは、エントロピーの低いエネルギーを環境から借りて、価値のある製品やサービスに一時的に変えることにすぎない。その過程では、生産された物やサービスに込められるよりも多くのエネルギーが費やされて環境へと失われる。

経済成長は、以下から構成されている。

加藤 久和 : 人口経済学 (日経文庫, 2007) p.139.

経済成長率=技術進歩の上昇率+資本分配率×資本ストック増加率+労働分配率×就業者増加率

  註:「資本ストック」とは、生産活動に使用される設備のこと。 (参考 同書 p.131.)

技術は、情報である。資本ストックと就業者は、情報をもとにエネルギーの変換する装置である。

姫路のご当地アイドル「KRD24」からの発想

姫路のご当地アイドルプロジェクト「KRD24」からの発想:

個人の共通点がなくなった社会(平均が意味を持たない社会)において、(マス)メディアは、ごちゃ混ぜを提供するか、キュレータとして振る舞う。

個人の共通点が残っている社会(平均が意味を持つ社会)において、(ローカル)メディアは、平均を提供し、安心を提供する。

共通点がある個人の集合において、平均はその共通点を浮かび上がらせるため、平均を、対象像として設定することに意味はある。しかし、共通点がない個人の集合に対して、平均は無意味である。なぜならば、個人がもつ性質の度合いの多くは、正規分布ではなく、冪条則に従って分布するからである。

個人と《個人同士の相互作用》の総合としての社会は、中心局限定理により、意味のある平均をもつ。その社会の将来を予測することは可能かもしれない――ハリ・セルダンの心理歴史学のように。

しかし、個人の共通点がなくなった社会において、個人への訴求力をもたなくなったマスメディアに、社会の操作は不可能である。あるならば、社会を特定の将来へ誘導すべく、個人への訴求力をもったメディアそれぞれを操作しなければならない。

現実学術によって、混沌から守りながら最適化を図る

まず管理する大事なのは秩序だ 秩序が制約を生む。我々は制約によって混沌から守られながら、自由な発想の元に、最適化を図る。

現実を対象とする学術(以下、「現実学術」と書く)は、「混沌から守りながら、最適化を図る」ために、《混沌から守りながら、望み・欲求を叶える現象を起こすために、何(変数)をどの値に変化させればいいのかを見つけること》が目的である。

言い換えれば、現実学術において、後々まで残る成果とは、外乱・内乱のなかにあっても、変数の変化に従い性能が目論見どおりに変化する、即ち、基本機能失わないシステムを構築・発見することである。

現実学術が成功している状況では、世界は単純である

補足:
当初、本文章における「現実学術」を「工学」と書いていた。

本文章の発想の起点は、品質工学にある。これは、工学分野において培われ・共有されている思考の対象分野が、人類の製造行為による生産物に限らず、その効用が普遍的であることを強く示唆する。

「現実学術」という言葉は、本文章において、現実を対象とする学術という意味で用いている。理想化された(=都合がよい)ものに満足しない学術である。

例えば、工学、医学、経済学、政治学、産業技術総合研究所のいう第2種基礎研究などである。

「工学」以外の「現実学術」を文章に例として当てはめて、その成立を確認し、「現実学術」という言葉の使用が適切だと判断した。