運命の奔流を制御して徳の実現に至る手段と術策を工夫

大平正芳 : 新権力論

 マキアベリーは、人間のいとなみは徳の実現を究極の目的とすべきものであるが、われわれか弱い人間はいわば盲目的な運命に押し流されておるもので、このままでは徳を実現することにはならない。したがって運命の奔流を制御して徳の実現に至る手段と術策を工夫し組織しなければならない。そこにいうところの権謀とか術数とかいうものが考えられることになるというのが、マキアベリーの哲学の骨組みのように私は理解しておる。

 しかし権力の本体は、そういう術策にあるのではなく、権力者自体の自らの在り方にあるのだということだけは銘記すべきであろう。術策の分量やその組み合わせの巧拙よりも、権力主体のあつめる信望の大きさが、その権力に本当の信頼と威厳をもたらすものである。アンドレ・モーロアは「他人を支配する秘訣は、自らを支配することを体得することにある」と言っておるが、権力の主体に対する頂門の一針というべきものであろう。

権力が奉仕する何かの目的がなければならない

春秋. 日本経済新聞, 2023/10/29, 1面.

独特の語り口から「アーウー宰相」と呼ばれた大平正芳元首相は、東西の思想に通じた政界屈指の知性派でもあった。彼は1971年3月、「新権力論」と題した文章を本紙に寄稿した。ルネサンス期の政治思想家のマキャベリを下敷きに、権謀術数の意味を考察した。

▼その中にこんな一文がある。「(権力は)それ自体孤立してあるものではなく、権力が奉仕する何かの目的がなければならない」。それは権力と比べて「より高次のもの」であるべきだとした。

大平は「むずかしいのは何が目的かということである」とした。

大平正芳 : 新権力論 (公益財団法人大平正芳記念財団)

政治と経済

補足:

持明院統と大覚寺統

後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統。

両統の対立を鎌倉幕府が裁定し、1275年から、両統迭立(りょうとうてつりつ)。

鎌倉幕府崩壊後、1333年の建武の新政で、皇統が大覚寺統(後醍醐天皇系)に統一されたかに見えたが、建武の新政の崩壊(1336年、後醍醐天皇の吉野行幸)で、持明院統の光厳天皇が即位(北朝)する。

その後、南朝は大覚寺統、北朝は持明院統。

南北朝時代 (日本) – Wikipedia #南北朝の天皇 – 系図

1392年、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する(「譲国の儀」)形で両朝が合一した。その際の約定「明徳の和約」では、その後は両統迭立することになっていたが、守られず、皇統は持明院統になった。