「教育勅語」が日本人・日本語の形成にもたらした役割

「教育勅語 (教育ニ関スル勅語)」(1890年=明治23年)の、日本人・日本語の形成にもたらした役割は大きいと考える。

当時は、対外戦争として国民意識が高まる日清戦争以前である。藩に分かれていた日本がひとつの国として国民に認識されるためには、国民すべてが声に出せるテキストが有効であった。

「国家は自然なものではない」(水村 美苗 : 日本語が亡びるとき (筑摩書房, 2008) p.108.)。そして、社会的存在である人間らしさは、不自然さを必ず持つ。

日本語の形成といえば、司馬遼太郎は「坂の上の雲」において、日露戦争終戦後の「聯合艦隊解散之辞」(1905年)をその文脈に捉えたが、国民すべてが声に出せるテキストとして「教育勅語」が与えた役割のほうが大きいと考える。

初出:
Facebook 2017/ 3/14

「聯合艦隊解散之辞」と日本語

司馬 遼太郎 : 坂の上の雲 8 (文春文庫, 1999) pp.288-289.

余談ながら明治期に入っての文章日本語は、日本そのものの国家と社会が一変しただけでなく、外来思想の導入にともなってはなはだしく混乱した。

 その混乱が明治三十年代に入っていくらかの型に整備されてゆくについては規範となるべき天才的な文章を必要とした。漱石も子規もその規範になったひとびとだが、かれらは表現力のある文章語を創るためにほとんど独創的な(江戸期に類例をもとめにくいという意味で)作業をした。

 真之の文章も、この時期でのそういう規範の役目をしたというべきであったろう。かれは報告文においてさかんに造語した。せざるをえなかったのは文章日本語が共通のものとして確立されていなかったことにもよる。その言いまわしもかれ自身が工夫せざるをえなかった。そういう意味で、かれの文章がもっとも光彩を放ったのは「連合艦隊解散ノ辞」である。

聯合艦隊解散之辞 – Wikipedia