第1次若槻内閣の総辞職(1927/ 4/20)は、台湾銀行救済の緊急勅令案が枢密院にて否決されたことによるものです。台湾銀行の業績悪化は、深く結びついていた鈴木商店の業績悪化によるものでした。
台湾銀行は、第一次大戦終戦後に業績が悪化した鈴木商店への貸付が不良債権化していました。
1927年、片岡大蔵大臣の〈東京渡辺銀行の破綻〉発言に端を発した昭和金融恐慌が起こる中、帝国議会において、可決された震災手形関係二法に「台湾銀行の整理」という付帯決議がつけられました。
これを受け台湾銀行への不安が広がり、台湾銀行は鈴木商店との絶縁を宣言しますが、これが台湾銀行への不安を濃くさせ、台湾銀行に取り付け騒ぎが発生します。
鈴木商店は休業(1927/4/5)し、これが各行に台湾銀行の早期の破綻を予見させます。台湾銀行は融資引き揚げ・債権回収を受け、台湾銀行は政府に救済を要請するに至りました。
参考文献:
昭和金融恐慌 – Wikipedia [2015年5月31日 (日) 17:21 の版]