温故知新のバリエーション

「温故知新」
故きを温ね、新しきを知る: 過去の知識(低位の知識。情報に近い、個々がバラバラの知識)を考察して、新たな知識(高位の知識。まとまった、普遍的知識・法則・体系)を得る。

「温故知故」
故きを温めて、故きを知る: 過去の知識(低)を考察して、過去の知識(高)と同じ結論を得る(再認識する)。
(「車輪の再発明」)

「温新知新」
新しきを温めて、新しきを知る: 新たな知識(低)を考察して、新たな知識(高)を得る。
(「知新温新」と組になって、漸進的に新たな知識(高)を獲得する。)

「温新知故」
新しきを温めて、故きを知る: 新たな知識(低)を考察して、過去の知識(高)と同じ結論を得る(再認識する)。
(「車輪の再発明」)

「温故知無」: 過去の知識(低)を考察して、何も得られない。
「温新知無」: 新たな知識(低)を考察して、何も得られない。

「温無知新」: 概念のひらめき。
「温無知故」: 突発的な概念の思い出し。

「知故温新」
故きを知って、新しきを温ねる: 過去の知識(高)を思い出し、それを使って、新たな知識(低)を考察する。

「知故温故」
故きを知って、故きを温ねる: 過去の知識(高)を思い出し、それを使って、過去の知識(低)を考察する。

「知新温故」
新しきを知って、故きを温ねる: 新たな知識(高)を使って、過去の知識(低)を考察する。
(振り返り。真相を知る。新しく得た見方で、いままでやってきたことを見直す。)

「知新温新」
新しきを知って、新しきを温ねる: 新たな知識(高)を使って、新たな知識(低)を考察する。

「知故温無」: 過去の知識(高)を使って、何もしない。
「知新温無」: 新たな知識(高)を使って、何もしない。

「知無温新」: 方策はないけれど、新たな知識(低)を考察する。
「知無温故」: 方策はないけれど、過去の知識(低)を考察する。

関係図:

温無知故※A
  ↓
  ↓┏←温新知故※C
  ↓↓
知故温故←→温故知故※B←知新温故※D
  ↓      ↑
  ↓┏←知無温故
  ↓↓
  ↓↓┏←←←←┓
温故知新→→→知新温故※D
       ↓↑  ↑
       ↓↑ 温無知新
       ↓↑  ↓
温新知新→→→知新温新※E
  ↑↑┗←←←←┛
  ↑↑
  ↑┗←知無温新
  ↑      ↓
知故温新←→温新知故※C←知新温新※E
  ↑↑
  ↑┗←温故知故※B
  ↑
温無知故※A

註:上図における

 温○知新とは、実際は、《温○知新、且つ、知新温無》の状態
 温×知故とは、実際は、《温×知故、且つ、知故温無》の状態

 知△温新とは、実際は、《知△温新、且つ、知新温無》の状態
 知□温故とは、実際は、《知□温故、且つ、知故温無》の状態

である。

オリンピック開催都市は、一時的な世界首都である

2020年の夏季オリンピックの開催都市が東京に決まったことを受けて、考えたことをまとめました。

オリンピック開催都市は、一時的な世界首都である:

都市と関心

オリンピックにおいて、その開催都市は、世界中に広く強烈にアピールされる。*

オリンピック (とそれに関係するものの複合体)は、世界のさまよう関心を一都市に集めるレンズであり、最も影響力がある関心項目(アジェンダ)の提供装置である。この大集中された関心を受けられる都市は、100年間に50都市しかない。**

世界との結節

オリンピック は「世界(全)」である。単一の存在である(例えるなら、餅。米のつぶが見えない)。これが時間を経るにつれて鎖を形成していく。

対して、我々が普段、触れている世界は、「世界(粒)」である。それの実際は、他国に住む複数の個人である(例えるなら、ご飯。米のつぶが見える)。国を超えた個人と個人の網(ネットワーク)であり、これが時間を経るにつれて、組み替えられていく。

オリンピックでは、オリンピックという「世界(全)」の歴史・権威・権力と、

  • 開催地の歴史
  • その歴史と開催地の民が支え、また戴く権威
  • 開催地の民の意思を反映した権力

が、結節される。ここに挙げた要素それぞれ(「開催地の民」を含む。一位に開催都市の民)が、「世界(全)」につながるのである。

特権的地位

オリンピック という公正な勝負のために作られた全く平等な場において、運営管理者たる開催都市は、圧倒的に高い地位を持つ。

補足:

* アピールされることが分かっているので、再開発がされる。都市の世紀において、広く共有された、数としては少数のスローガンの元に、都市を再開発 (development) でき、それを広く強烈に世界にアピール (demonstration) できるオリンピックは、絶好の機会である。

** 同時に、 オリンピック開催都市は、大集中された関心に晒されても立ち続けなければならない。

初出:
2013年9月9日 – 7:03
2013年9月9日 – 7:17
2013年9月9日 – 7:18
2013年9月14日 – 13:02
2013年9月14日 – 13:03
2013年9月14日 – 20:18
2013年9月14日 – 20:19

関連:

バンクーバーオリンピック 2010年02月13日(開会式)の Twilog

ロンドンオリンピック開会式を見る 2012年

渡月橋

2013年 8月24日に京都・嵐山に所用があり、ついでに渡月橋を観光してきました。

Togetsu-kyo Bridge, Arashiyama

最初は、橋長155 m の巨大建造物であるところが見所なのかな、と思ったのですが、橋の上で確信したことは、

  渡月橋一帯の広大な空間

が見所なのだということです。

View from Togetsu-kyo Bridge, Arashiyama

渡月橋が、亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことからと名付けられた(Wikipedia, 2013年9月18日 (水) 16:12 の版)ことからも分かるように、川幅が広くなった桂川にかかる渡月橋からの全天の眺めを遮るものはありません。

渡月橋のすぐ上流には、西高瀬川の起点になる葛野大堰((かどのおおい))があり、悠然と水をたたえています。そして、水面(みなも)の背景は、緑の山です。

壺にとって、中の空間が一番大事だという話がありますが、渡月橋は、空間を感じさせる、そしてそれと同時に壺をみせる装置だと言えます。

(補足: これは小雨の日に観光したからかもしれませんが、橋のたもと(中ノ島公園)はとても静かで、道路橋でもある渡月橋上でも静かでした。この静けさも見所です。)

Arashiyama 2013 – a set on Flickr

台風18号にともなう嵯峨嵐山の観光について | 京都市観光協会

ハレのS/N比

関連:
周囲を写すこと – いつかの昨日 Reblog by TAKAGI-1 たんぶら

ジャパネットたかたの高田社長がビデオカメラを売る際に子どもだけじゃなくて、親の顔を撮ったほうがいい、その子どもが大きくなったときに、自分が幼い頃なんてぶっちゃけどうでもいいけれど、自分の誕生を両親がどれだけ喜んでくれていたかを実感できるのは素敵だというような話をされていたんだけど、ほんとにそうですね。

委ねてもらうには

これは、オリンピック開催都市選考に限らず、普遍的に言える。

人の限界、人の進歩

9・11(アメリカ同時多発テロ事件) において 世界貿易センタービルへの第2撃を防げなかった理由は、人が、全てを直観する「神」でないからである。少なくとも、第1撃から第2撃の17分間において、人は、全てを直観する「神」でなかった。

しかし、人は、撮影された動画から選び出し、それを広く配信・共有することによって、少しの時間差で、多くを直観するに至った。そう考えれば、(9・11の際はテレビカメラであったが、)ビデオカメラ付きスマホの普及は、「神」に近づく道の一つである。

参考の引用:
貫 成人 : 哲学マップ (ちくま新書, 2004) p.68.

かれら[:デカルト、パスカル、スピノザ、ライプニッツ]の「神」についても〈その視点から宇宙と時間の全体を見渡しうる永遠の絶対的全知全能存在〉という設定と理解しておけば十分である。

「無敵の被害者様」と「だって被災地だもの」の違い

NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」第138回 (2013/ 9/ 7放送)中の台詞「だって被災地だもの」からの思索:

●「無敵の被害者様」

被害者-加害者間に焦点を当て、自立が顕らかに捉えられていない。

●「だって被災地だもの」

被害者-(被害に会っていない)外部者間に焦点を当て、自立が顕らかに捉えられている。

関連:
胸に残る…クドカンの実体験「だって被災地だもの」に賞賛の声 #あまちゃん | 「あまちゃん」徹底解説ブログ

「EPIC」を思い出す

【これが全自動?】22才が作ったニュースの要約サービスが凄い件 – NAVER まとめ
アマゾンのベゾスCEO、ワシントン・ポスト紙を個人として買収。キャッシュで2億5000万ドル – Engadget Japanese

を読んでいて、「Googlezon」で知られる動画「EPIC」を思い出したのですよ。

本当は、「EPIC 2015」の日本語字幕付きを載せたいのだけれど、あれどこにいったのかなぁ。

EPIC 2015 (2005年発表):

EPIC 2014 (日本語字幕付き) (2004年発表):

固有名詞など定量的には 「EPIC」での将来予測は正しくなかったですが、定性的には将来予測は正しかったです。

過去の将来予測に定性的に言い当てられた、今現在の社会を、今に生きる我々は、当たり前のように受け入れています。