ムーアの法則と仲間たち

遠藤 諭 : 神は雲の中にあらわれる 第122回 みんな〝ムーアの法則〟のせいなのさ!. 週刊アスキー, 2015/5/12-19号, p.146 (2015/ 4/28 発行・発売).

ムーアの法則 (Moore’s law) 18ヵ月で集積密度は2倍になる

クライダーの法則 (Kryder’s law) 13ヵ月でハードディスクの記憶密度は2倍になる

ニールセンの法則 (Nielsen’s law) 21ヵ月でネットの帯域幅は2倍になる

ビル・ジョイの法則 (Bill Joy’s law) 12ヵ月でプロセッサーの最大性能は2倍になる

ギルダーの法則 (Gilder’s law) 6ヵ月でネットのコミュニケーションパワーは2倍になる

鉱山化

鉱脈が見つかっても、開発して鉱山にして、はじめて利益をもって鉱石が手に入る。

鉱山化は本質的に重要である。

例1: ビジネスモデル

鉱山の例のひとつは、ビジネスモデルである。眠れる価値(ビジネスモデルなしでは、活用されない、あるいはお金にならずに使用される価値)をお金にする。 ビジネスモデルのおかげで、能力ある者が、金を稼ぎ、金を使い、人々が食っていける。

例2: 肥料

原始以来、落ち葉・糞尿から肥料が作成された。落ち葉・糞尿が肥料に変わる仕組みが「鉱山」である。

肥料の成分が化学的に解明され、リン鉱石から化学肥料が製造された。リン鉱石から肥料に変わる仕組みが「鉱山」である。

さらに、大気中の窒素ガスから化学肥料が製造された。エネルギーと空気が肥料に変わる仕組みが「鉱山」である。

例3: エネルギー

原始以来、木材からエネルギーが得られた。山がエネルギーに変わる仕組みが「鉱山」である。

石炭・石油などの化石燃料が掘り出されエネルギーが得られた。岩盤・砂漠がエネルギーに変わる仕組みが「鉱山」である。

さらに、今、水素をエネルギー媒体に利用する大規模な取り組みが始まっている。さまざまな今まで利用できなかったエネルギーを、水・水素を介して利用する仕組みが「鉱山」である。

補足:
肥料とエネルギーは、共に、

 再生可能資源を用いた「鉱山」
    ↓
 化石資源を用いた「鉱山」
    ↓
 容易獲得物質を用いた「鉱山」

という歴史を歩み、或いは歩みつつある

水素エネルギーとハーバー・ボッシュ法、技術決定論と唯物史観

要点:
肥料とエネルギーは、再生可能資源から化石資源へ、化石資源から容易獲得物質へ、という歴史を歩み、或いは歩みつつある。

エネルギーにおいて、容易獲得資源とは水(エネルギー媒体としては水素)である。

これらは、生産力に関する新たな革新である。それを実現する、生産力に関する新たな技術は、唯物史観によれば、技術決定論の文脈に語られる技術のなかで最も影響力が大きい。

1.水素エネルギーとハーバー・ボッシュ法

水素エネルギーの実用化は、大気中の窒素から肥料を作るハーバー・ボッシュ法の実用化(1912年)に似ている。

人類は、木材・木炭などの再生可能エネルギーから、石炭・石油などの化石燃料に転換することで、滅亡を免れた。

例えば、昔の製鉄には木炭が使われていたが、製鉄のための森林伐採による森林の減少が問題化した。行きすぎた森林伐採による鉄の生産量の急激な減少は、人類を窮地に立たせたであろう。人類を食わせているのは、鉄製の機械や道具が重要な役割を果たす人類社会であり、鉄の生産量の急激な減少は、それを維持できなくするからである。

ヒトが人として生きるためには、外部から食糧以外のエネルギーの供給が必要である(人類はその誕生の瞬間からして、その存在を外部エネルギー源に依存している)。現在の、人類人口を支えているのは、化石燃料や原子力である。さらに言えば、大人口が生存する前提である政治の安定も、高エネルギー消費によって実現されてきた

地球上に溢れた資源から肥料を作り出した、ハーバー・ボッシュ法の実用化にあたる、エネルギー界での出来事は、水素エネルギーの実用化であろう。

もちろん、水素エネルギーは、電気と同じ二次エネルギーである。水素を作るためには、他のエネルギー源(一次エネルギー)が必要である。しかし、いままで使えなかった一次エネルギーを水素の形態で使えるようになることの意味は大きい。鉱脈が見つかっても、開発して鉱山にしてこそ、はじめて利益をもって鉱石が手に入る。水素エネルギーの実用化は、鉱脈(:いままで使えなかった一次エネルギー)だけがある状態を、それを利用できる鉱山がある状態にする

2.技術決定論と唯物史観

ハーバー・ボッシュ法の実用化が人口の急増を起こしたように、水素エネルギーの実用化は、人類に繁栄と変化をもたらすだろう。

水素エネルギーの実用化は、生産力に直結する。生産とは、すなわちエネルギーの消費であるからだ。生産力に関する新たな状況は、唯物史観によれば、経済のみならず、文化などを含む社会全体の改革を引き起こす。生産力に関する新たな技術は、技術決定論の文脈に語られる技術のなかでも最も影響力が大きいと考えられる。

下部構造 – Wikipedia [2015年2月1日 (日) 16:26 の版]

唯物史観では、歴史を動かす基本的な動力は生産力と生産諸関係との矛盾にあるものと考えられた。すなわち、ある時代の生産力は、その時代の生産諸関係を規定し、何らかの要因で生産力が向上し、生産諸関係との間に矛盾が生じると、社会革命の時期が始まり、経済的基礎の変化と共に巨大な上部構造全体が徐々にあるいは急激に変革されると考えられたのである。

準惑星と太陽系小天体

準惑星
 ・小惑星帯に存在
   ・ケレス
 ・冥王星型天体
   ・冥王星
   ・エリス
   ・マケマケ
   ・ハウメア

太陽系小天体
 ・太陽系外縁天体
 ・小惑星
   ・小惑星の一覧 (1-1000)
   ・パラス
   ・ジュノー
   ・ベスタ
   ・アストラエア
   ・ヘーベ
   ・イリス
   ・フローラ
   ・メティス
   ・ヒギエア
 ・彗星
 ・惑星間塵

コンピュータを創った偉人たち

日本電子計算機株式会社(現、株式会社 JECC(ジェック)) JECC NEWS 2010年7月号~2012年12月号:

(1) ジョン・フォン・ノイマン(1903~1957年)
(2) アラン・チューリング(1912~1954年)
(3) ウィリアム・ショックレー(1910~1989年)
(4) ジョン・モークリー(1907~1980)/ ジョン・プレスパー・エッカート(1919~1995)
(5) チャールズ・バベッジ(1791~1871年)
(6) クロード・エルウッド・シャノン(1916~2001年)
(7) コンラート・ツーゼ(1910~1995年)
(8) ジョン・ヴィンセント・アタナソフ(1903~1995年)
(9) ハワード・エイケン(1900~1973年)
(10) ジェイ・ライト・フォレスター(1918~ )
(11) グレース・マリー・ホッパー(1906~1992年)
(12) ブレーズ・パスカル(1623~1662年)/ ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646~1716年)
(13) ヴァネヴァー・ブッシュ(1890~1974年)
(14) ジョージ・ブール(1815~1864年)
(15) エイダ・ラブレス(1815~1852年)

口蹄疫と自動車エンジン

Weekly Report: ○コンセントは? EVに思わぬ難敵 (2010/ 7/21 確認, 現在ページ消失)

ガソリン自動車が蒸気自動車を駆逐した経緯は、口蹄疫の蔓延で馬用の水桶が失われ、インフラの優劣が逆転した事にその発端がある。

梶井 厚志 : 戦略的思考の技術 (中公新書, 2005) p.134.

口蹄疫は1914年北アメリカでも大流行したのであるが、一説によるとこのときの口蹄疫の流行が、現在の自家用車にガソリンエンジンが搭載されるきっかけになったという。というのも、当時は蒸気エンジンも自家用車の動力として使われていたのだが、口蹄疫の流行を防ぐために馬用の水桶が撤去されてしまい、水道の普及が都市部にとどまっていた当時では、蒸気エンジンを搭載する車は動力源の水の補給を断たれてたいそう使いにくいものになってしまった。そのため、水を必要としないガソリンエンジンの研究開発が盛んに行われたというのである。

奥村 憲博 : 経路依存, ロック・インとグローバル・エネルギー戦略. IEEJ (2007年3月掲載).

 現在はガソリン車が市場を支配しているが、20 世紀初頭では、それぞれに不確実性を有した蒸気エンジン車、ガソリンエンジン車及び電気自動車の3つの候補が、競争を展開していた。内燃機関も、適正な品質等級のガソリンが得られにくいこと、危険であること、内燃機関エンジンはより多くの洗練された作動を蒸気エンジンより必要とされること等、多くの欠点を有していた。当時の蒸気エンジン車は、技術的・経済的両面でガソリンエンジン車と同等であった 6)。

 しかしながら、次のように歴史はガソリン車に有利に展開し、

・ 電気自動車にとっては、当時の米国の電力グリッドが地方には展開していないことがハンディ

・ 蒸気エンジン車にとっては、口蹄疫という伝染病が馬にはやったことから道路脇に水桶を設置することが条例で禁止されたことがハンディ

そして最初の 10 年間で、ガソリン車は、電気自動車及び蒸気エンジン車を数桁のオーダーで引き離した 7)。もし最初の自動車の出現が 20 年程度後れていたとしたら、今日の自動車のエンジンは、. 内燃機関ではなかったかもしれない 8)。当該事例は、ある意味典型的な経路依存性を示している。

6) D. Kirsch; Flexibility and Stabilization of Technological Systems: The Case of the Second Battle of the Automobile Engine (Program in History of Science and Technology, Department of History. Stanford University), (1995).

7) J. Foreman-Peck; Technological Lock-in and the Power Source for the Motor Car, Discussion Papers in Economic and Social History, Vol7(University of Oxford), (1996).

8) B. W. Arthur; On Competing Technologies and Historical Small Events: the Dynamic of Choice under Increasing Returns, Working Paper (IIASA, Austria), (1983) 83-90.

東京理科大学近代科学資料館、計算機の歴史から技術の進歩をたどる

東京理科大学の近代科学資料館には、ブッシュ式アナログ微分解析機をはじめ、計算道具・計算機のコレクションが展示されています:

動画に登場する計算道具・計算機:
 ・算具・そろばん
 ・機械式計算機
 ・電子式卓上計算機
 ・大型計算機(ブッシュ式アナログ微分解析機・パラメトロン計算機・UNIVAC 120 [真空管計算機])
 ・計算尺
 ・三元連立方程式を解く実験機

微分解析機再生プロジェクト
微分解析機 全天球画像 | RICOH THETA

松下村塾――吉田松陰と山尾庸三と工学の誕生

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ユネスコ諮問機関イコモスが世界文化遺産への「登録」を勧告(2015年5月4日)した「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」には、吉田 松陰 の松下村塾が含まれています。

なぜ「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」に、松下村塾が含まれているのでしょうか?

その答えを、5月6日のTBS「ひるおび!」において金谷 俊一郎 氏が解説されていました。吉田 松陰 は、「工学教育論」を唱えていた。門下の伊藤 博文 は、イギリスのグラスゴー(イギリスを代表する工業都市)に留学し、初代 工部卿になった、と。

萩エリア~萩市の資産 松下村塾 – 萩市ホームページ

工学教育論を提唱した吉田松陰の実家と塾舎

松陰は海防の観点から工学教育の重要性をいち早く提唱し、工学の教育施設を設立し在来の技術者を総動員して自力で産業近代化の実現を図ろうと説きました。その教えを受け継いだ塾生らの多くが、後の日本の近代化・産業化の過程で重要な役割を担いました。

これをきっかけに、いろいろ調べてまとめました:

伊藤 博文 は、ともにグラスゴーに留学した山尾 庸三 とともに、工学寮(後の東京大学工学部の前身のひとつ)を設立します(1871年)。山尾 庸三 は、松下村塾出身ではありませんが、留学前から二人は見知った仲であったと言われています(二人で、「群書類従」の編纂者・塙 保己一 (塙検校)の息子である、国学者・塙 忠宝 を、暗殺したと言われます)。

工学寮が学生を得た1873年、初代都検(教頭。実質的な校長)として、グラスゴーから、ヘンリー・ダイアー (Henry Dyer)が赴任します。なお、1873年において、工部省のトップである工部卿は、伊藤 博文 。工部大輔は、山尾 庸三 です。

ヘンリー・ダイアーは、熱力学のウィリアム・ランキンの弟子ですが、山尾 庸三 の学友でありました。伊藤 博文 ・山尾 庸三 を通じて、吉田 松陰 の「工学教育論」は、技術決定論同様のグラスゴーの思想(下記引用)と、つながっていたのです。

ヘンリー・ダイアー – Wikipedia [2015年3月2日 (月) 13:43 の版]

ダイアーの教育思想を育んだ背景は、大英帝国の発展を支えた「機械の都」スコットランド・グラスゴーに根づく「エンジニアの思想」であったと考えられる。「エンジニアの思想」とは、ヴィクトリア期スコットランド人技師によって生み出されたもので、「エンジニアとは、社会進化の旗手であり、生涯、研究・創作していく専門職である」という考え方である。

これが、「工学の誕生」の重要な点であったと考えます。

なお、伊藤 博文 は、1882年にウィーンにて、「大学で生産される知と知識人をまって初めて国家の体制は確立される」との考えに至り、第1次伊藤博文内閣において、帝国大学は設立されます(1886年)。教育を起点にする考え方は、工学寮に通じるものを感じます。

補足:
「工学の誕生」の下地として、以下があったと考えます:

・技術に焦点を当てたフランスの「百科全書」、およびその土壌となるブルジョアジーの強大化

ディドロ, ダランベール=編, 桑原 武夫=訳編 : 百科全書―序論および代表項目 (1971, 岩波文庫) p.398.

多田 道太郎による解説「『百科全書』について」より。

 なぜ百科全書派は技術を重視したのか。理由はかんたんである。それがブルジョアジーの利益になるからである。総じていえば「所有が市民をつくる」というブルジョア的立場が『百科全書』のほとんどを貫いており、したがってブルジョアの武器、道具としての技術が、新しく重視されることになったのである。

大阪府立図書館~フランス百科全書 図版集 ( 2004/05/12 )

・ヘーゲルの「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」の考え方

未踏であるほど、知能は知性に先行する
哲学と現実、科学と技術
ミネルヴァの梟

初出:
Facebook 2015/ 5/ 6

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韮山反射炉・萩反射炉――反射炉と製鋼

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ユネスコ諮問機関イコモスが世界文化遺産への「登録」を勧告(2015年5月4日)した「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」には、製鉄・製鋼に関して、韮山反射炉萩反射炉が挙げられています。

反射炉は、現在、製鋼に使われていない方法です。以下に、解説します:

反射炉は、燃料の燃焼室と、鉄を扱う部分(炉床)が分けられている炉です。燃焼による輻射と燃焼ガスが、炉床に向かうように設計されています。燃焼室が分かれているため、石炭に含まれる不純物が、溶鉄に混じりません。

反射炉の役割は、炭素や不純物の除去です。

炭素や不純物を多く含む鉄(銑鉄)を反射炉に入れ、棒でかき回して(パドル法)、鉄に混じっている炭素や不純物を酸化反応させガスにして取り除きます。炭素濃度が低くなった鉄は、融点が上がり粘度が増して、棒に絡まります。この絡まった鉄を取り出し、その後叩いて、スラグを叩き出し、錬鉄ができます。

その後、錬鉄と木炭を坩堝(るつぼ)に入れ、加熱することにより、錬鉄に炭素を適度に加わり、鋼ができます(るつぼ製鋼法)。

しかし、この方法は手間がかかります。

反射炉+パドル法+るつぼ製鋼法 に替わった製鋼法が、転炉を使ったベッセマー法です。

銑鉄に空気を吹き込み、酸化熱を発生させながら(火を使いません)、炭素・不純物を酸化してガス化して取り除き、その後、炭素などを適度に加える方法です。またスラグは、鉄よりも密度が低く、溶鉄の上に浮いてくるため、それを取り除きます。

ベッセマー法により、製鋼のコストが格段に落ちます。鉄道用レールの生産には、製鋼のコスト削減が重要であり、日本における鉄道レールの国産は、1901年に官営八幡製鉄所において開始されますが、八幡製鉄所には転炉が当初から設置されていました。

彼島 秀雄 : 高炉技術の系統化. 国立科学博物館技術の系統化調査報告, Vol.15, pp.79-159 (2010-03) 101.

明治 34 年(1901)11 月ベッセマー転炉の操業開始による溶銑直送の開始、

同文献 111.

八幡製鉄所では創立当初はベッセマー 10t 転炉 2 基、25t 塩基性平炉 4 基であったが、

初出:
Facebook 2015/ 5/ 5

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釜石の橋野高炉――鉄鉱石と木炭による高炉製鉄

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ユネスコ諮問機関イコモスが世界文化遺産への「登録」を勧告した「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」のなかのひとつに、釜石の橋野鉄鉱山・高炉跡があります。

橋野高炉(1858年~)では、鉄鉱石を原料に、高炉による製鉄が行われました。日本で従来行われていた〈たたら吹き〉では、砂鉄を原料に、〈たたら炉〉による製鉄が行われました(なお、〈たたら〉(鑪)は、炉に空気を送るふいご(鞴)の意味)。〈たたら炉〉はできた鉄を取り出す際に壊されます(つまり、1回きりしか使えない)が、高炉では連続的に製鉄ができます。

鉄鉱石を原料にした高炉による製鉄によって、鉄の大量生産・コストダウン、それによる社会の現在に向かった発展の道が開けましたが、橋野高炉を含めた幕末・明治初めの高炉では、まだまだ不足している重要な点がありました。

橋野高炉では、現在のようなコークス(:石炭を蒸し焼きにした燃料)ではなく、木炭(:木材を蒸し焼きにした燃料)が使用されたのです。

三陸ジオパーク | 34.橋野高炉跡

高炉操業に欠かせない木炭は、周辺地域の森林から製造され、

木炭を使用した製鉄では、森林がどんどん消えていきます。イギリスのネルソン提督は、グロスターシャーにあるディーンの森の状況に危機感を持ちました。ディーンの森周辺では、製鉄業が栄えていました。

日本でも、1880年に操業を開始した官営釜石鉄山は、木炭不足が支障になり、廃止されました。

彼島 秀雄 : 高炉技術の系統化. 国立科学博物館技術の系統化調査報告, Vol.15, pp.79-159 (2010-03) 91-92.

官営釜石鉄山

 第 1 次操業は明治 13 年(1880)9 月 10 日に開始したが、木炭の不足と小川製炭場の火災事故のため 97日で操業を中止した。総出銑量 1,508t、平均出銑量15.5t / d、還元材比(木炭比)1.429t / t であった。操業は順調であったが木炭消費量が当初計画に倍する 1 日 1 万貫(37.5t)を必要とした。
 木炭山は閉伊郡甲子村ほか 5 ヶ村に 2,800 町歩を有するに過ぎず、製炭場も小川 1 ヶ所のみでたちまち木炭の供給に円滑を欠いた。

釜石鉄山の調査に派遣された工部省の鉱山権少技長伊藤弥四郎による「釜石の鉱石埋蔵量はわずか 13 万 t 余に過ぎず、木炭材はわずか 4,000 町歩で高炉 1 日 1 万貫を使用するならば 2 ヵ年にて消費するであろう」との報告を受け、釜石での製鉄事業の将来性なしとして明治15年(1882)12 月に約 8 年間で官営釜石鉄山は廃止された。

近代製鉄ではありませんが、古来日本において製鉄で栄えた出雲では、森林伐採がすさまじく、大山(だいせん)あたりの植物の植生は、自然なものではないといいます。製鉄による環境破壊は、宮崎駿の「もののけ姫」において、描かれました。

「もののけ姫」の基礎知識 (抜粋: TAKAGI-1 たんぶら 2010/ 1/10)

一回の操業で使用した砂鉄十九トン、木炭十五トン(基礎部乾燥には更に一五〇トン)、得られた鉄五トン。操業数回で山一つ消滅したと言う。
 物語は、タタラが最も盛んであった出雲(島根県)で展開されているが、実際に出雲の地形は製鉄によって著しく変化したと言われている。弥生時代に、日本の原生林が多く消失していることも、渡来人による製鉄の開始が原因と言われている。

日本で初めて、木炭ではなく、製鉄にコークスが使われたのは、1894年、釜石鉱山田中製鉄所においてです。

彼島 秀雄 : 高炉技術の系統化. 国立科学博物館技術の系統化調査報告, Vol.15, pp.79-159 (2010-03) 93.

田中製鉄所でわが国製銑技術史上特筆すべきは、野呂影義、香村小録の指導で明治 27 年(1894)にわが国初のコークス高炉法が誕生したことである。

製鉄の原料が木炭からコークスに移行することによって、鉄の大量生産・コストダウンが可能になり、社会の現在に向かった発展が可能になりました。

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