韮山反射炉・萩反射炉――反射炉と製鋼

戻る

ユネスコ諮問機関イコモスが世界文化遺産への「登録」を勧告(2015年5月4日)した「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」には、製鉄・製鋼に関して、韮山反射炉萩反射炉が挙げられています。

反射炉は、現在、製鋼に使われていない方法です。以下に、解説します:

反射炉は、燃料の燃焼室と、鉄を扱う部分(炉床)が分けられている炉です。燃焼による輻射と燃焼ガスが、炉床に向かうように設計されています。燃焼室が分かれているため、石炭に含まれる不純物が、溶鉄に混じりません。

反射炉の役割は、炭素や不純物の除去です。

炭素や不純物を多く含む鉄(銑鉄)を反射炉に入れ、棒でかき回して(パドル法)、鉄に混じっている炭素や不純物を酸化反応させガスにして取り除きます。炭素濃度が低くなった鉄は、融点が上がり粘度が増して、棒に絡まります。この絡まった鉄を取り出し、その後叩いて、スラグを叩き出し、錬鉄ができます。

その後、錬鉄と木炭を坩堝(るつぼ)に入れ、加熱することにより、錬鉄に炭素を適度に加わり、鋼ができます(るつぼ製鋼法)。

しかし、この方法は手間がかかります。

反射炉+パドル法+るつぼ製鋼法 に替わった製鋼法が、転炉を使ったベッセマー法です。

銑鉄に空気を吹き込み、酸化熱を発生させながら(火を使いません)、炭素・不純物を酸化してガス化して取り除き、その後、炭素などを適度に加える方法です。またスラグは、鉄よりも密度が低く、溶鉄の上に浮いてくるため、それを取り除きます。

ベッセマー法により、製鋼のコストが格段に落ちます。鉄道用レールの生産には、製鋼のコスト削減が重要であり、日本における鉄道レールの国産は、1901年に官営八幡製鉄所において開始されますが、八幡製鉄所には転炉が当初から設置されていました。

彼島 秀雄 : 高炉技術の系統化. 国立科学博物館技術の系統化調査報告, Vol.15, pp.79-159 (2010-03) 101.

明治 34 年(1901)11 月ベッセマー転炉の操業開始による溶銑直送の開始、

同文献 111.

八幡製鉄所では創立当初はベッセマー 10t 転炉 2 基、25t 塩基性平炉 4 基であったが、

初出:
Facebook 2015/ 5/ 5

戻る

釜石の橋野高炉――鉄鉱石と木炭による高炉製鉄

戻る

ユネスコ諮問機関イコモスが世界文化遺産への「登録」を勧告した「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」のなかのひとつに、釜石の橋野鉄鉱山・高炉跡があります。

橋野高炉(1858年~)では、鉄鉱石を原料に、高炉による製鉄が行われました。日本で従来行われていた〈たたら吹き〉では、砂鉄を原料に、〈たたら炉〉による製鉄が行われました(なお、〈たたら〉(鑪)は、炉に空気を送るふいご(鞴)の意味)。〈たたら炉〉はできた鉄を取り出す際に壊されます(つまり、1回きりしか使えない)が、高炉では連続的に製鉄ができます。

鉄鉱石を原料にした高炉による製鉄によって、鉄の大量生産・コストダウン、それによる社会の現在に向かった発展の道が開けましたが、橋野高炉を含めた幕末・明治初めの高炉では、まだまだ不足している重要な点がありました。

橋野高炉では、現在のようなコークス(:石炭を蒸し焼きにした燃料)ではなく、木炭(:木材を蒸し焼きにした燃料)が使用されたのです。

三陸ジオパーク | 34.橋野高炉跡

高炉操業に欠かせない木炭は、周辺地域の森林から製造され、

木炭を使用した製鉄では、森林がどんどん消えていきます。イギリスのネルソン提督は、グロスターシャーにあるディーンの森の状況に危機感を持ちました。ディーンの森周辺では、製鉄業が栄えていました。

日本でも、1880年に操業を開始した官営釜石鉄山は、木炭不足が支障になり、廃止されました。

彼島 秀雄 : 高炉技術の系統化. 国立科学博物館技術の系統化調査報告, Vol.15, pp.79-159 (2010-03) 91-92.

官営釜石鉄山

 第 1 次操業は明治 13 年(1880)9 月 10 日に開始したが、木炭の不足と小川製炭場の火災事故のため 97日で操業を中止した。総出銑量 1,508t、平均出銑量15.5t / d、還元材比(木炭比)1.429t / t であった。操業は順調であったが木炭消費量が当初計画に倍する 1 日 1 万貫(37.5t)を必要とした。
 木炭山は閉伊郡甲子村ほか 5 ヶ村に 2,800 町歩を有するに過ぎず、製炭場も小川 1 ヶ所のみでたちまち木炭の供給に円滑を欠いた。

釜石鉄山の調査に派遣された工部省の鉱山権少技長伊藤弥四郎による「釜石の鉱石埋蔵量はわずか 13 万 t 余に過ぎず、木炭材はわずか 4,000 町歩で高炉 1 日 1 万貫を使用するならば 2 ヵ年にて消費するであろう」との報告を受け、釜石での製鉄事業の将来性なしとして明治15年(1882)12 月に約 8 年間で官営釜石鉄山は廃止された。

近代製鉄ではありませんが、古来日本において製鉄で栄えた出雲では、森林伐採がすさまじく、大山(だいせん)あたりの植物の植生は、自然なものではないといいます。製鉄による環境破壊は、宮崎駿の「もののけ姫」において、描かれました。

「もののけ姫」の基礎知識 (抜粋: TAKAGI-1 たんぶら 2010/ 1/10)

一回の操業で使用した砂鉄十九トン、木炭十五トン(基礎部乾燥には更に一五〇トン)、得られた鉄五トン。操業数回で山一つ消滅したと言う。
 物語は、タタラが最も盛んであった出雲(島根県)で展開されているが、実際に出雲の地形は製鉄によって著しく変化したと言われている。弥生時代に、日本の原生林が多く消失していることも、渡来人による製鉄の開始が原因と言われている。

日本で初めて、木炭ではなく、製鉄にコークスが使われたのは、1894年、釜石鉱山田中製鉄所においてです。

彼島 秀雄 : 高炉技術の系統化. 国立科学博物館技術の系統化調査報告, Vol.15, pp.79-159 (2010-03) 93.

田中製鉄所でわが国製銑技術史上特筆すべきは、野呂影義、香村小録の指導で明治 27 年(1894)にわが国初のコークス高炉法が誕生したことである。

製鉄の原料が木炭からコークスに移行することによって、鉄の大量生産・コストダウンが可能になり、社会の現在に向かった発展が可能になりました。

戻る

国産製鉄・鉄道レール・戦艦・機関車

国産製鉄:

釜石鉱山田中製鉄所
高炉製鉄、1886年開始。

国産鉄道レール:

官営八幡製鐵所において、1901年から開始。

西尾 一政, 山口 富子, 桝本 弘毅, 岡崎 睦: 国産レールの製造設備及び技術の革新過程. 特定領域研究「日本の技術革新-経験蓄積と知識基盤化-」 第3回国際シンポジウム研究発表会 論文集 (2007)
佐伯 和彦, 岩野 克也: 鉄道用軌条の歩みと今後の展望. 新日鉄住金技報, 第395号 (2013) 19-25.

国産戦艦:

薩摩型戦艦
戦艦薩摩 1905年起工、1906年進水、1910年竣工。

国産機関車:

国鉄9600形蒸気機関車
純国産機関車、1913年製造開始。

「しくみの発達博物館」開設のお知らせ、その特徴と背景

少し前になりますが、2013年11月23日、新しいWebサイトの公開を開始しました:

 しくみの発達博物館
 http://takagi1.net/shikumi/

  サイトのメッセージ:

すべての当たり前のモノは、だんだんと発達してきた――人々の願いと賢さ、そして人々の「わたしたちの願いは何だろうか?」「賢くなろう!」「願いを実現しよう!」「賢さを使おう!」という気持ちを支えたモノのおかげで。

本がいっぱいある、インターネットも使える、遠くの人ともやりとりができる、今のわたしたちにできることは、きっと多い。

● 内容:産業博物館(≒技術史博物館)、でもそれだけではない

内容は、一次近似で言えば、産業博物館(≒技術史博物館)です。「しくみの発達博物館」として、〈モノの仕組み〉技術史に合わせて、〈社会が持つ仕組み〉社会制度史も扱っています。

● Webサイトとしての特徴:小学生向け(小学4年生以上)を意識したサイト

私としては初めての小学生向け(小学4年生以上)を意識したサイトです。小学4年生以上で習う漢字にはルビを振り、また画面スクロールなしで見られるようコンテンツを小分けにしました。

小学4年生で習う漢字には、社会人になって頻繁に使う漢字が多いことに気づきました。

 例えば: 械 関 願 器 機 議 験 航 産 史 試 初 選 的 働 博 飛 例 歴

対象を小学4年生以上だとしている根拠は、川喜田 二郎=著『発想法』の 「自分の住んでいる町の歴史的発展を理解するなどのように、時間的にみて鎖状に、前から後へつながる意味での関係認知能力ができるのは、じつに十歳以後であるという」 ですが、(小学4年生が特別ではないのでしょうが) 大事な時期だということが分かります。

● 背景:知性を守護し、増進させる仕組みとしてのWeb博物館

私は、技術史が好きです。

小学5年生のとき、本格的に歴史を学びはじめたときに、鮮烈に感動したのは、縄文土器(火焔土器)の美しさでした。

時を経て、私は、大学・大学院と工学部・工学研究科に属しました。そこで聞いた講演の、工学部学生・出身者は自分を技術史のなかに位置づけるべきだ、という話が琴線に響き、技術史への興味はさらに強まりました。そこで、技術史に関するサイトのブックマークを集めていました。

さらに時を経て 2012年、知性を守護し、増進させる仕組み――精神主義ではなく、仕組み――を作ろうと構想しました。この時に、ある産業博物館のことを思い出したのです。その博物館とは、アメリカ合衆国デトロイトにあるヘンリー・フォード博物館。「ヘンリー・フォード博物館を作ろう」と思ったのです。

大学で受けたある講義において、同博物館は米国の知性の源、だと表されていました。

同博物館では、米国を代表する歴史的知性であるエジソンやライト兄弟に関する展示、また米国を象徴する自動車の展示がされています。しかし、講義で教官が示した理由は、それではありませんでした。

挙げられた理由は、昔の掃除機の展示があること、でした。家電の発展、生活の発展が展示されているのです (参考: Home Arts, Fully Furnished / Home Arts, Fully Furnished 2 )。

つまり、同博物館は、米国における、歴史的な〈人による生産物〉を、産業から生活に至るまで展示しています。私は、同博物館が米国の知性の源である理由を、エジソン・ライト兄弟・自動車を生み出し、支えた、その時代の人々の生活が、明示的に示されている点だと考えました。

この考えを発展させ、作り出されたのが、「しくみの発達博物館」です。

ここに明らかなように、「しくみの発達博物館」は、単なる産業博物館ではありません。

ヘンリー・フォード博物館における産業-生活の軸を、「しくみの発達博物館」では、知性-学術的・経済的・動員的・安全的・健康的基盤という軸に捉え直しました。また、(人類最大の勘違いとも言われますが、)社会・人間は漸進的に進歩するという思想を織り込んでいます。

制作・運営に関する思想の詳細は、「しくみの発達博物館」について に載せています。

技術の発展は閾値を超えると、急速に進み出す

W・ブライアン・アーサー=著, 有賀 裕二=監修, 日暮 雅通=訳 : テクノロジーとイノベーション―― 進化/生成の理論 (みすず書房, 2011) p.220.

たとえ百万分の一の確率であっても、構成要素として役に立つ機能があれば、与えられた構成要素一式でテクノロジーが確立し誕生する確率は、やはり式 (2N – N – 1)/1,000,000 か、 2N-20 の近似値で求められる。

新しいテクノロジーがつぎつぎと新テクノロジーを生み出すとすれば、集まった要素が大まかな閾値を超えるや、組み合わせの可能性の数が急速に増大を始めるということだ。

註:
構成要素の数N。このとき構成要素の組み合わせの総数は 2N – N -1 (構成要素単独、及びいずれの構成要素も組み合わせない場合を除いた総数)。

技術史の記憶

W・ブライアン・アーサー=著, 有賀 裕二=監修, 日暮 雅通=訳 : テクノロジーとイノベーション―― 進化/生成の理論 (みすず書房, 2011) pp.233-234.

足がかりとなるテクノロジーに中間的難度のニーズを実行させないと、複雑な要求が実行できるようにはならないのだ。

 実際の社会で考えてみると、無線、ひいては無線通信がなければレーダーは開発されなかったかもしれないことがわかる。…

 ごく当然の成り行きとして、進化は歴史に依存する関係にあることもわかった。

押さえておきたい文章「100年前の技術から現代への教訓を学ぶ」

新技術の普及について。

100年前の技術から現代への教訓を学ぶ(15.365 Disruptive Technology) – My Life After MIT Sloan

1) 技術力だけでは勝てない。業界や消費者の動き方を変えないのは新技術普及の鍵

このように、消費者やサプライヤーなど、バリューチェーンの自分以外のプレーヤーの動き方を変えない工夫を凝らす、というのは技術を普及させる上で重要なポイントだ。

新技術によって、バリューチェーンの他のプレーヤーの負荷が出来るだけ少ないことは、技術普及に非常に大切な要素なのだ。

2)既存技術は新技術が出てきたとき、大幅に性能アップする

新規プレーヤーは常に、この旧技術のあがきを覚悟しておく必要がある、と言う話。

3) 技術以外の要素が大切。最終的には技術でなく、システム・アーキテクチャ管理力で勝つ。

人々はそういう技術力より、「GEにお願いすれば全て整う」という理由でGEを選んだのだ。要素技術ではなく、アーキテクチャを支配し、システム全体を提供する力が重要、というのは現代のどの技術にも言える。