[目黒庸三郎は、]大正11年から同13年まで、細菌学、とくにジフテリアの研究のために渡欧し、ベルギーとパリのパスツール研究所で、のちにノーベル医学生理学賞を受賞したボルデー博士やラモン博士に研究指導を受けました。
帰国後、阪神急行電鉄の取締役速水太郎氏に物心両面に支援を受けて、大阪市北区木幡町(現北区西天満)に大阪実験治療研究所(昭和12年目黒研究所と改名)を設立しました。目黒は、ここでジフテリア血清・コレラワクチン・日本脳炎ワクチンなど生物学的製剤の開発改良に尽力し、世界に認められる予防医学研究所に発展させました。