紺碧の艦隊 第4話「天元作戦発令」
しかし、本作戦計画をもっと効果あらしめるには、やはり謀略が必要です。謀略は計算ではでてきません。すぐれた策略家の意表をつく発想こそが作戦の成否を決めます。… 正確な計算に基づく見積もりと行動計画は、作戦の確立の検証でしかありません。
紺碧の艦隊 第4話「天元作戦発令」
しかし、本作戦計画をもっと効果あらしめるには、やはり謀略が必要です。謀略は計算ではでてきません。すぐれた策略家の意表をつく発想こそが作戦の成否を決めます。… 正確な計算に基づく見積もりと行動計画は、作戦の確立の検証でしかありません。
バーバラ・W・タックマン=著, 山室 まりや=訳 : 八月の砲声 下 (ちくま学芸文庫, 2004) p.165.
遠隔の地で起こったバルカン戦争を除いては、一九一四年まで約一世代にわたってヨーロッパ大陸に戦争はなかった。
出来事を調べてみると、遠隔の地であるバルカン半島に起こった戦争を除いては、一九一四年まで約一世代にわたってヨーロッパ大陸に戦争はなかった、が正しい。
戦争一覧 – Wikipedia [2012年8月24日 (金) 09:28 の版]から、1860年から第一次世界大戦までの期間における、ヨーロッパ、バルカン半島が戦場になった戦争を抜き出してみた (なお、引用にある「一世代」とは30年を指すから、1884年~1914年で一世代である)。
・1864年 – 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 – Wikipedia — ユトランド半島の制圧 (デンマーク)
・1866年 – 普墺戦争 — ケーニヒグレーツの戦い – Wikipedia (チェコ)
・1870年~1871年 – 普仏戦争 – Wikipedia — セダンの戦い – Wikipedia (フランス)、パリ陥落
・1877年~1878年 – 露土戦争 (1877年-1878年) – Wikipedia (戦場: バルカン半島)
・1897年 – 希土戦争 (1897年) – Wikipedia (戦場: バルカン半島)
・1911年~1912年 – 伊土戦争 – Wikipedia (戦場: バルカン半島、北アフリカ)
・1912年 – 第一次バルカン戦争 – Wikipedia (戦場: バルカン半島)
・1913年 – 第二次バルカン戦争 (戦場: バルカン半島)
(私は『銀河英雄伝説』に、以下の思想がある、と汲み取った:)
艦隊は、急転進(×拙い艦隊運動)によって、弱体化する。
なぜならば、その速力が減じ、またその防御に隙が生まれるからだ。
関連:
… スピード重視の理ではないか。戦力は速度の2乗に比例する。 #sakanoue #sakakumo #nhk
— TAKAGI-1 高木 一さん (@takagi1) 12月 26, 2010
… 軍事行動は基本的に集団行動であり、その中間的目的は「場」の生成である。幾何学に基づいた“殺られる前に殺れる”「場」の生成である。
— TAKAGI-1 高木 一さん (@takagi1) 11月 27, 2010
日本軍の失敗から何を学ぶのか? 今後の日本を勝利に導く「3つの戦略」|「超」入門 失敗の本質――日本軍と現代日本に共通する23の組織的ジレンマ|ダイヤモンド・オンライン
大東亜戦争の後半では、「レーダーにより味方戦闘機を誘導する」米軍の重層防御思想が登場し、レーダー圏内では戦闘機単体の多少の性能差が、まったく勝敗に結び付かなくなっていきます。
「ガンダムAGE」で司令フリットと副官アルグレアスがやっていたのも、これ。
中国から見た日本地図を見て考えたのは、台湾の重要性である。台湾は黒溝台がもちえた意味をもつ。黒溝台のように退いてはならない。
司馬 遼太郎 : 坂の上の雲 6 (文春文庫, 1999) p.37.
[黒溝台を]最後の一兵になるまで守りぬけば、救援軍である立見師団は、生きている黒溝台を支軸にいかようにも旋回しうるのである。
映画「プライベート・ライアン」(1998)を見て、考えたこと。
● 補給・思考(勝つための工夫、物資の効率的な運用)・作業(必要な時に引き金を引くこと) を継続すること。
● 打撃をした時点から、自分の死亡率が跳ね上がる。
・敵に居所を知られる → 居所に攻撃を集中されて、死ぬ。
↓
・移動をしなければならない。 → 移動中に攻撃されて、死ぬ。
逆の見方をすると、
・敵の居所を知ること。
・敵に移動を強いること。
● 歩兵が戦闘能力を有した状態で残ることが、最終的な勝利条件。
竹内 正浩 : 鉄道と日本軍 (ちくま新書, 2010) p.197.
青泥窪は、ニコライ二世によってロシア語で「遠い」という意味のダーリニー(達爾尼[:ダルニ])と改称された。
竹内 正浩 : 鉄道と日本軍 (ちくま新書, 2010) p.198.
陥落七か月後の明治三八年一月二七日、占領行政を担当する日本の遼東守備軍は、紀元節の二月一一日をもって青泥窪を大連と改称する旨、布告している。