松下村塾――吉田松陰と山尾庸三と工学の誕生

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ユネスコ諮問機関イコモスが世界文化遺産への「登録」を勧告(2015年5月4日)した「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」には、吉田 松陰 の松下村塾が含まれています。

なぜ「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」に、松下村塾が含まれているのでしょうか?

その答えを、5月6日のTBS「ひるおび!」において金谷 俊一郎 氏が解説されていました。吉田 松陰 は、「工学教育論」を唱えていた。門下の伊藤 博文 は、イギリスのグラスゴー(イギリスを代表する工業都市)に留学し、初代 工部卿になった、と。

萩エリア~萩市の資産 松下村塾 – 萩市ホームページ

工学教育論を提唱した吉田松陰の実家と塾舎

松陰は海防の観点から工学教育の重要性をいち早く提唱し、工学の教育施設を設立し在来の技術者を総動員して自力で産業近代化の実現を図ろうと説きました。その教えを受け継いだ塾生らの多くが、後の日本の近代化・産業化の過程で重要な役割を担いました。

これをきっかけに、いろいろ調べてまとめました:

伊藤 博文 は、ともにグラスゴーに留学した山尾 庸三 とともに、工学寮(後の東京大学工学部の前身のひとつ)を設立します(1871年)。山尾 庸三 は、松下村塾出身ではありませんが、留学前から二人は見知った仲であったと言われています(二人で、「群書類従」の編纂者・塙 保己一 (塙検校)の息子である、国学者・塙 忠宝 を、暗殺したと言われます)。

工学寮が学生を得た1873年、初代都検(教頭。実質的な校長)として、グラスゴーから、ヘンリー・ダイアー (Henry Dyer)が赴任します。なお、1873年において、工部省のトップである工部卿は、伊藤 博文 。工部大輔は、山尾 庸三 です。

ヘンリー・ダイアーは、熱力学のウィリアム・ランキンの弟子ですが、山尾 庸三 の学友でありました。伊藤 博文 ・山尾 庸三 を通じて、吉田 松陰 の「工学教育論」は、技術決定論同様のグラスゴーの思想(下記引用)と、つながっていたのです。

ヘンリー・ダイアー – Wikipedia [2015年3月2日 (月) 13:43 の版]

ダイアーの教育思想を育んだ背景は、大英帝国の発展を支えた「機械の都」スコットランド・グラスゴーに根づく「エンジニアの思想」であったと考えられる。「エンジニアの思想」とは、ヴィクトリア期スコットランド人技師によって生み出されたもので、「エンジニアとは、社会進化の旗手であり、生涯、研究・創作していく専門職である」という考え方である。

これが、「工学の誕生」の重要な点であったと考えます。

なお、伊藤 博文 は、1882年にウィーンにて、「大学で生産される知と知識人をまって初めて国家の体制は確立される」との考えに至り、第1次伊藤博文内閣において、帝国大学は設立されます(1886年)。教育を起点にする考え方は、工学寮に通じるものを感じます。

補足:
「工学の誕生」の下地として、以下があったと考えます:

・技術に焦点を当てたフランスの「百科全書」、およびその土壌となるブルジョアジーの強大化

ディドロ, ダランベール=編, 桑原 武夫=訳編 : 百科全書―序論および代表項目 (1971, 岩波文庫) p.398.

多田 道太郎による解説「『百科全書』について」より。

 なぜ百科全書派は技術を重視したのか。理由はかんたんである。それがブルジョアジーの利益になるからである。総じていえば「所有が市民をつくる」というブルジョア的立場が『百科全書』のほとんどを貫いており、したがってブルジョアの武器、道具としての技術が、新しく重視されることになったのである。

大阪府立図書館~フランス百科全書 図版集 ( 2004/05/12 )

・ヘーゲルの「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」の考え方

未踏であるほど、知能は知性に先行する
哲学と現実、科学と技術
ミネルヴァの梟

初出:
Facebook 2015/ 5/ 6

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韮山反射炉・萩反射炉――反射炉と製鋼

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ユネスコ諮問機関イコモスが世界文化遺産への「登録」を勧告(2015年5月4日)した「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」には、製鉄・製鋼に関して、韮山反射炉萩反射炉が挙げられています。

反射炉は、現在、製鋼に使われていない方法です。以下に、解説します:

反射炉は、燃料の燃焼室と、鉄を扱う部分(炉床)が分けられている炉です。燃焼による輻射と燃焼ガスが、炉床に向かうように設計されています。燃焼室が分かれているため、石炭に含まれる不純物が、溶鉄に混じりません。

反射炉の役割は、炭素や不純物の除去です。

炭素や不純物を多く含む鉄(銑鉄)を反射炉に入れ、棒でかき回して(パドル法)、鉄に混じっている炭素や不純物を酸化反応させガスにして取り除きます。炭素濃度が低くなった鉄は、融点が上がり粘度が増して、棒に絡まります。この絡まった鉄を取り出し、その後叩いて、スラグを叩き出し、錬鉄ができます。

その後、錬鉄と木炭を坩堝(るつぼ)に入れ、加熱することにより、錬鉄に炭素を適度に加わり、鋼ができます(るつぼ製鋼法)。

しかし、この方法は手間がかかります。

反射炉+パドル法+るつぼ製鋼法 に替わった製鋼法が、転炉を使ったベッセマー法です。

銑鉄に空気を吹き込み、酸化熱を発生させながら(火を使いません)、炭素・不純物を酸化してガス化して取り除き、その後、炭素などを適度に加える方法です。またスラグは、鉄よりも密度が低く、溶鉄の上に浮いてくるため、それを取り除きます。

ベッセマー法により、製鋼のコストが格段に落ちます。鉄道用レールの生産には、製鋼のコスト削減が重要であり、日本における鉄道レールの国産は、1901年に官営八幡製鉄所において開始されますが、八幡製鉄所には転炉が当初から設置されていました。

彼島 秀雄 : 高炉技術の系統化. 国立科学博物館技術の系統化調査報告, Vol.15, pp.79-159 (2010-03) 101.

明治 34 年(1901)11 月ベッセマー転炉の操業開始による溶銑直送の開始、

同文献 111.

八幡製鉄所では創立当初はベッセマー 10t 転炉 2 基、25t 塩基性平炉 4 基であったが、

初出:
Facebook 2015/ 5/ 5

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