気象学(気候学を除く)の特徴は、その成果が固定されず、大衆の個々逐次の行動によって生まれることである。
気象学の知見を信じる大衆の個人個人が逐次、自ら行動する、あるいは自ら行動を抑制することによって、不利益をもたらす気象をやり過ごすことができる。しかし、気象学は、不利益な気象そのものを無くしたり、無効化することはできない。
たとえば、気象学によって、午後から雨が降ると予め分かり、子供との遊園地行きを取りやめることができる。この時、雨に濡れることによる損害は防げるが、子供は満たされない。百年後の子供も、おそらく同様の満たされない体験をするだろう。
雨でも影響が全くない屋内遊園地をつくるならば、百年後の子供は、同様の満たされない体験をすることはないだろう。屋内遊園地という成果は、気象学の成果ではない。
気象学は、気候学の下位につくことにより、成果を固定できる。
気候学は、その成果が固定される。たとえば、将来の気候を一定範囲に収めるために、化石エネルギーの使用量を数字で表わした社会設計という形で、成果は固定される。
気象学は、気候学のパラメタリゼーションの高度化手法、あるいは、サブシステムとして働き、気候学の固定される成果への貢献を成果とすることができる。
一方で、固定されない、大衆の個々逐次の行動によって生まれる成果の存在を、大いに価値あるものとして考えることもできる。
これは、貴族が大衆を救うのではない、大衆自らが救いをもとめる鎌倉仏教のような学術である。
鎌倉仏教型の学術も、人類の力になる。そして、人類の「知の力」のうち、「鎌倉仏教」の強化が今日、疎かになっていると、私は考える。