日本書紀 巻第十 応神天皇 より。
なお、「日本書紀」には、雄略天皇の段にも同様の記述がありますが、池田の織姫伝説は、応神天皇の段です。呉服神社の祭神は、一柱は呉服(くれはとり)※呉織(紀) ですが、もう一柱は応神天皇の次の天皇である仁徳天皇(=大鷦鷯尊[おおさざきのみこと])です。
宇治谷 孟: 日本書紀(上) 全現代語訳―全二巻― (講談社学術文庫, 1988) p.223.
三十七年春二月一日、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉に遣わして、縫工女を求めさせた。阿知使主(あちのおみ)らは高麗国(こまのくに)に渡って、呉に行こうと思った。さて高麗についたが道が分らず、道を知っている者を高麗に求めた。高麗王は久礼波(くれは)・久礼志(くれし)の二人をつけて道案内させた。これによって呉に行くことができた。呉の王は縫女(ぬいめ)の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の四人を与えた。
宇治谷 孟: 日本書紀(上) 全現代語訳―全二巻― (講談社学術文庫, 1988) p.224.
四十一年春二月十五日、天皇は明宮(あきらのみや)で崩御された。時に御歳百十歳。一説では大隈宮でお亡くなりになったともいう。
この月、阿知使主らが呉から筑紫についた。そのときに宗像大神(むなかたのおおかみ)が工女らを欲しいといわれ、兄媛(えひめ)を大神に奉った。これがいま筑紫の国にある御使君(みつかいのきみ)の先祖である。あとの三人の女をつれて津国(つのくに)に至り、武庫についたとき天皇が崩御された。ついに間に合わなかったので、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に奉った。この女たちの子孫がいまの呉衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)である。