「池田市歌」3番の歌詞の謎

池田市歌 (歌詞読み: 池田市歌)」の3番の歌詞:

 〽清新のまち
  心たのしく意気も高らか
  美しい郷土はつつむはるかな理想
  梅かおり桃咲く中に
  幸ぞ野に山にあふれる
  池田

「梅かおり桃咲く中に」。何故、市の花 サツキツツジ ではないのでしょうか。

「池田市歌」が「池田市の花・木・鳥」よりも前に決められたからです。「池田市歌」は 1949年、「池田市の花・木・鳥」は 1969年に決められました。

池田市歌の作詞者について、経歴などを知りたい | レファレンス協同データベース

池田市歌(作詞:瀬川浩、作曲:信時潔)は、昭和24年4月、市制10周年を記念して作られました。

1.『大阪春秋38号』p135に<池田市歌>が載っており、その最後に、歌詞は公募により採用されたこと、また作者は当時の池田市立城南中学教諭だったことが書かれています。 (城南中学校は現在の北豊島中学校)

池田の市章と市の花・木・鳥/池田市

池田市の花・木・鳥は、市制施行30周年を記念して昭和44年(1969)3月、市民の代表からなる選考委員会を経て選定されました。

大阪府池田市の偉人「明治から昭和初期の池田」編 NotebookLMで紹介

参考文献: 池田市・池田市教育委員会=編: 続池田学講座 ―人物誌編― (池田市・池田市教育委員会, 2009) 第3章 池田の再生と池田文化の顕彰.

「NotebookLM」に与えたテキスト:

#大阪府池田市の偉人

岸上善五郎(きしがみ ぜんごろう,1850-1916) 実業家。東市場村(現,天神1丁目)の豪農岸上家に生まれ、その後、父は本町(現,栄本町)で酒造業を営む。善五郎は、地域資本によるはじめての銀行、摂池銀行(せっちぎんこう。1895年,設立-1927年,山口銀行に吸収合併)を設立した。

北村儀三郎(きたむら ぎさぶろう,1883-1933) 実業家。実家の酒造業を継ぎ、池田の酒造史『池田酒史』を出版。池田自動車運送株式会社・池田土地株式会社・摂池銀行等で要職を重ねた。1919年には豊中市待兼山で実施された陸軍特別大演習において、大正天皇に御前講演を行う。

森秀次(もり しゅうじ,1855-1926) 政治家。1876年、豊島郡古江村(現,古江町)の大地主森家に入る。村会議員、大阪府会議員。1899年、大阪府会副議長。1903年、衆議院議員に初当選。地租修正運動、箕面の公園化、師範学校の設置場所問題に尽力する。箕面公園内に銅像がある。

田村駒治郎(たむら こまじろう,1866-1931) 実業家。貴族院議員。染色法を発展させた。図案意匠に長け、アメリカ生まれの福の神「ビリケンさん」を自社の優秀商品の代表商標に登録。死後、遺言によって多額の寄付を池田町に寄せ、池田公会堂が建設された。

山口樟蔭(やまぐち しょういん,1827-1905) 漢学者。漢学所(のちの大学校,京都)の教官、私塾長、十津川藩校、吉野師範学校の教員を経た後、1890年、池田村柳屋町(現,綾羽1丁目)に漢学の塾を開く。

稲束芝馬太郎(いなつか しばたろう,1855-1932) 蔵幅家・鑑識家。「呉郷春秋会」(設立時は,呉郷審美会。1905年-1944年)の設立の中心人物。1914年には、芝馬太郎を中心にして、池田町長・伊居太神社宮司・池田師範学校の教員らによって「池田史談会」が発足した(~1943年)。

皆川庸匡(みながわ ようきょう,1863-1894) 歌人・国文学者。豊能高等小学校の教員として池田に赴任。和歌,国文学の私塾「伊居太学館(いけだがっかん)」を開く。葛野教譲(葛は下部「ヒ」が正)(枯骨)・岸上又吉・林田松三郎(炭翁)・戸田利氏・戸田クマ子・寺部君子・石井愛子らが師事。

多田春子(?-1934) 歌人。西之口町(現,西本町)の呉服商の家に生まれる。皆川庸匡に師事。自宅で戸田クマ子・寺部君子・松下茂子・石井愛子・林田炭翁らが「さつき会」(歌集『皐月集』)を結成。春子の歌集は、林田炭翁によって『わくら葉』として刊行。

戸田クマ子(とだ くまこ,熊子・久満子とも,1877-1966) 歌人。田中町(現,栄町)の酒造家の家に生まれる。皆川庸匡に師事。「さつき会」(歌集『皐月集』)、「摘草会」(他に曽根田良久子・寺部君子・西村芳枝・石渡万寿子)に参加。歌集『芹の花』・『澄の井』(共に今中楓渓撰)。

葛野枯骨(葛は下部「ヒ」が正,かどの ここつ,1878-1960) 僧・社会運動家。山口樟蔭の漢学塾や皆川庸匡の伊居太学館で学ぶ。1907年、池田でタブロイド『縦横新報』を発行。1908年1月、同紙は池田師範学校開校(同年4月)を見越した大幅な家賃値上げに反対し、呉服座で公開演説会を開催。

吉田鋭雄(よしだ はやお[orとしお],1879-1948) 漢学者・漢詩人。重建懐徳堂の助教授・教授(堂主)。池田史談会の中心的なメンバー。江戸時代の池田の文人に関する研究は、ほとんど鋭雄と稲束猛の成果を基礎としている。稲束猛との共著『池田人物誌』・「池田叢書」5編。

稲束猛(いなつか たけし,1889-1927) 漢学者・美術史家。稲束芝馬太郎の長男。呉春を研究し、1918-1920年に美術雑誌『国華』『中央美術』に盛んに論文投稿。1923年から重建懐徳堂の講師。吉田鋭雄との共著『池田人物誌』では、牡丹花肖柏の池田来住にはじまる池田文化を体系化した。

原田長治(はらだ ちょうじ,1883-1946) 実業家・政治家。1914年、『太陽新聞』を創刊。吉田鋭雄・稲束猛共著『池田人物誌』は、長治が代表の太陽日報社から出版(1923・1924年)。池田史談会「池田叢書」5編の印刷も太陽日報社が行った。後に大阪府会議員(3期15年余)。原田憲は子息。

前田金吾(まえだ きんご,1896-1945) 政治家。1935年、池田町と秦野・細河・北豊島3村合併後の池田町長に就任。町税制改革、池田都市計画の策定、上下水道整備。1936年焼失の池田小学校の新築、北豊島・秦野小学校の増改築、現,呉服小学校新設。現,ダイハツ工業池田工場建設を実現。

大阪府池田市の偉人「池田室町の人々」編 NotebookLMで紹介

参考文献: 池田市・池田市教育委員会=編: 続池田学講座 ―人物誌編― (池田市・池田市教育委員会, 2009) 第4章 池田が迎えた多士済々の人びと.

「NotebookLM」に与えたテキスト:

#大阪府池田市の偉人

小林一三(こばやし いちぞう,1873-1957) 実業家。箕面有馬電気軌道(現,阪急電鉄)の専務(1907年)、1927年に社長。東京電燈社長(1933年)、目蒲電鉄・東横電鉄・昭和肥料・三越・日本軽金属の重役。商工相(1940年)。国務相兼戦災復興院総裁(1945年)。1956年に池田市初の名誉市民。

須磨対水(すま たいすい,1868-1955) 日本画家。1914-1926年、室町に居を構える。作品は、料亭「花外楼」「吉兆」「美々卯」などの床の間を飾った。

橋詰良一(はしづめ りょういち,1871-1934) 社会事業家。大阪毎日新聞社 事業部長。「大大阪記念博覧会」(1925年)理事、特設館・娯楽館委員長。「家なき幼稚園」を設立。1922年開園の池田家なき幼稚園は、現在の室町幼稚園(1940年改称)。

岩野泡鳴(いわの ほうめい,1873-1920) 小説家・詩人。小説『発展』『毒薬を飲む女』『放浪』等。1年5ヶ月の間 室町に住み 大阪に通勤。室町では養蜂をし 室町クラブで玉突きに興じる。池田時代に『池田日記』『続池田日記』・『ぼんち』(箕面有馬電気軌道沿線が描かれる)を記した。

東くめ(ひがし くめ,1877-1969) 作詞家。童謡「鳩ぽっぽ」「お正月」「雪」等の作詞。言文一致で書かれた日本初の唱歌集『幼稚園唱歌』(1901年)収録の20曲のうち13曲は、くめの作詞。室町に居を構える。池田市より教育文化功労賞(1962年)。五月山公園に「鳩ぽっぽ」の歌碑がある。

目黒庸三郎(めぐろ ようざぶろう,1879-1947) 細菌学者・免疫学者。室町に居を構える。大阪実験治療研究所(1937年、目黒研究所に改名)を創設し、ジフテリア血清・コレラワクチン・日本脳炎ワクチンなど生物学的製剤の開発・改良に尽力した。池田市神田に目黒研究所附属免疫場。従四位勲四等旭日小綬章。

葛野壮一郎(葛は下部「ヒ」が正,かどの そういちろう,1880-1944) 建築家。池田生まれ。東京帝大建築学科卒業後、帝国劇場建設・神奈川県庁舎改築工事に携わる。帰阪後は室町に居を構える。大阪では、大江ビルヂングや中央電気倶楽部など。1934年、池田尋常高等小学校の増築を手がける。

小倉金之助(おぐら きんのすけ,1885-1962) 数学者。1917-1937年、室町に居を構える(途中の1919-1922年にフランス留学)。塩見理化学研究所長、大阪医科大学(後の大阪大学)教授。東京に移った後、東京物理学校理事長。著作は『小倉金之助著作集』第1~8巻にまとめられる。

高木和夫(たかぎ かずお,1887-1964) 音楽家。1914年、宝塚少女歌劇(現,宝塚歌劇)第1回公演にて歌劇「ドンブラコ」等3作の音楽監督・楽団指揮・ピアノ演奏。室町に居を構える。以降、在職50年、宝塚歌劇団の指導的な作曲家。「モン・パリ」(1927年)、「パリゼット」(1930年)の編曲。

小川月舟(おがわ げっしゅう,1891-1967) 写真家。1927年に代表作「瀞峡」。同年、大阪北浜に小川月舟写真場を開き、室町から通う。戦後は、全関西写真協会の会長をつとめ、1960年に日本写真協会功労賞。

木谷千種(きたに ちぐさ,1895-1947) 日本画家。室町の叔父宅に寄寓。第1回大阪美術展覧会入選「新居」と第9回文展入選「針供養」を室町で制作。大阪天下茶屋の自宅に画塾「八千草会」(後に八千草会研究所に改称)を設立。

狩野千彩(かのう ちあや,1906-1992) 日本画家。満寿美町に住む。木谷千種に師事し、1925年、「ガラシャ 忠興の妻」で第6回帝展入選。

大阪府池田市の偉人「戦後池田の発展」編 NotebookLM で紹介

参考文献: 池田市・池田市教育委員会=編: 続池田学講座 ―人物誌編― (池田市・池田市教育委員会, 2009) 第5章 池田市誕生と戦後池田の発展.

「NotebookLM」に与えたテキスト:

#大阪府池田市の偉人

武田義三(たけだ ぎぞう,1896-1975) 政治家。武田帯芯商店に勤め、武田家に迎えられ、1928年から社長。大胆な宣伝で社業を拡大し、池田経済界の中心人物になる。1947年、公選第1期市長。五月山公園(緑地)整備(1949年~)、五月ヶ丘住宅開発(1957年~)。7期28年に渡って市長を務める。

樫野南陽(かしの なんよう,1887-1956) 日本画家。「まみづ汐水」が第1回文展(1907)3等賞。疎開を除き1928年から生涯,小阪前町(おさかまえ,現,綾羽2丁目)に住む。前田金吾や池田正雄らの「南陽後援画会」、小林一三や清瀧幸次郎らの「南一会」が定期的に作品を購入し経済的に助けた。

鍋井克之(なべい かつゆき,1888-1969) 洋画家。「秋の連山」で二科賞(第2回二科展,1915年)。1930年から北轟木(現,住吉1丁目)を活動の場とする。1946年に中川紀元,宮本三郎らと第二紀会(後,二紀会と改称)設立。著書『閑中忙人』『大阪繁盛記』『大阪ぎらい物語』。1960年,名誉市民。

矢野橋村(やの きょうそん,1890-1965) 南画家。大阪砲兵工廠で左手首を切断。1913年、第7回文展で初めて入選。1924年、私立大阪美術学校を設立。私財をなげうち、後進の育成につとめる。豊中市待兼山に住んだことで、門下から池田市に住むものも出る。1963年、日本南画院会長。#池田 の偉人 p.140

神田南畝(かんだ なんぽ,1892-1983) 俳人。1900年から池田市本町に住む。1925年、永尾宋斤と共に俳誌『早春』を創刊(宋斤が出宰)。同誌は1944年停刊となるが、1946年、南畝が復刊、出宰となる。

大村呉楼(おおむら ごろう,1895-1966) 歌人。南新町(現,新町)の家に生まれ、1922年、アララギの会員。1929年、石橋荘園(現,荘園1丁目)に居を移す。1945年、宣真高等女学校でアララギ大阪歌会開催。1946年、自宅で関西アララギ会結成。歌集『花藪』『西東』『午前午後』『猪名野』。

古家新(ふるや しん,1897-1977) 洋画家。1925年、室町に移る。フランスから帰国後、中之島(現,石橋1丁目)に移り、鍋井克之と交流。1935年、「海風」で二科展特待受賞。1941年、二科会会員に推される。1945年、向井潤吉らとともに行動美術協会を設立し、その代表に就く。

村山長一(むらやま ちょういち,1900-1981) 医学者。小林一三が大阪回生病院の菊池篤忠に強く勧め同病院の池田分院として開業した池田回生病院の3代目院長に1939年就任。総合病院への体制整備を進める。1939-1952年の間、池田市医師会会長。関西庭球協会会長。1960年、名誉市民。

前田虹映(まえだ こうえい,1897-1945) 鳥瞰図作家。1936年、住まいを池田の井口堂に構え、後に北轟木(現,住吉1丁目)に転居。「大本山善通寺図絵」(1936年)、「鳥取県之観光」「熱海温泉観光図」(1939年)、「福岡市観光図」「聖地橿原神宮と奈良県観光」(1940年)などを制作。

橋本八重三(はしもと やえぞう,1892-1947) 造園家。細河村長を務めていた叔父・下村峻五郎に育てられる。1922年、日本建築協会による住宅改造博覧会(箕面桜ヶ丘)にて庭園担当の委員。同年、大阪心斎橋大丸百貨店の屋上庭園を引き受け、大丸園芸部を経営。著書『植木屋の裏おもて』。#池田 の偉人 p.152

日野草城(ひの そうじょう,1901-1956) 俳人。1921年、19歳で『ホトトギス』雑詠の巻頭を占める。終戦後、大阪住友火災海上保険(株)の要職に在り、激務で体調を崩し、退職。1949年、中之島(現,石橋1丁目)に新居を購入し、終のすみかにする。俳誌『青玄』を刊行。#池田 の偉人 p.154

藤田露紅(ふじた ろこう,1903-1986) 俳人。1903年、内田町(現,大和町)の家に生まれる。1927年、栄町で理容店を開業。1921年、俳誌『大地』、1927年からこれにかわって『大樹』、1938年からは『新月』を創刊。1949年、俳誌『筧』を創刊・主宰。句集『白露』(1963年)。

竹﨑瑞夫(たけざき みずお,1881-1961) 実業家。1932年、発動機製造(株)の取締役、1947年から社長。1951年、ダイハツ工業(株)に社名変更。1956年、1938年より池田工場を建設し、池田市の発展、産業振興に寄与したことをもって名誉市民賞。

小石雄治(こいし ゆうじ,1894-1984) 実業家。竹﨑瑞夫の後を受け、1955年からダイハツ工業(株)社長。ミゼットの生産・販売をリード。1965年、本社を池田市に移転するなど、池田市の産業発展に寄与したことから、名誉市民賞。

平松宏春(ひらまつ こうしゅん,1896-1971) 金工家。1944年、石橋に居を移す。1946年、第1回日展で「鉄鵜置物」が特選。1965年には大阪芸術大学教授。1965年、池田市教育文化功労賞、1967年、名誉市民賞。1970年から日展参与。1971年没後、従五位勲四等瑞宝章。

岡田實(おかだ みのる,1904-1997) 工学者。1938年から池田市旭丘に居を構える。溶接を研究課題とし、溶接の学問体系を確立。1966年に『熔接工学』として結実した。1966年、第8代大阪大学総長。1967年、名誉市民賞。1980年、勲一等瑞宝章。

胡桃沢源人(くるみさわ げんじん,1902-1992) 洋画家。妻は融紅鸞。石橋に住む。帝展・新文展・日展で入選・特選を重ね、日展では参与。浪速短期大学美術科教授・大阪芸術大学美術科教授もつとめ、後進の育成にあたる。

融紅鸞(とおる こうらん,1905-1982) 日本画家。夫は胡桃沢源人。石橋に住む。帝展・新文展・日展で入選を重ね、1941年には「赤光社」を主宰、後進の育成に力を注ぐ。ラジオ「悩みの相談室」での決め台詞「あんさん、別れなはれ」が有名。著書『体当たり人生』『極楽女房』等。

清瀧幸次郎(きよたき こうじろう,1903-1984) 実業家。父・清瀧徳兵衛は1912年に池田実業銀行を設立。1930年に幸次郎が頭取に就任(1945年、住友銀行と合併)。1951年、小林一三(設立発起人。発足後,相談役)の後押しを受け、戦後5番目の地方銀行池田銀行を設立。1965年、名誉市民賞。

安藤百福(あんどう ももふく,1910-2007) 実業家。日清食品創業者。1958年、世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」を発明。1971年、世界初のカップ麺「カップヌードル」を発明。財団法人安藤スポーツ・食文化振興財団を創設。名誉市民。正四位勲二等旭日重光章。

新町だんじり が万博にて展示・演技

大阪・関西万博の大阪ウィーク「大阪の祭!~EXPO2025 春の陣~」(2025年5月9日~10日)にて、大阪府内各地の約40台の だんじり等が展示され、池田市からは新町だんじり が展示されました。

9日午前には 愛子様 (内親王殿下)に、生で ご覧(台覧)いただいた模様です。

愛子さま、万博で「だんじり」を熱心に鑑賞…「生で見て迫力があって良かったです」 : 読売新聞 (2025/05/09)

愛子さまは9日午前、大阪・関西万博の会場を訪れ、この日から始まった「大阪ウィーク」で展示中の「だんじり」を見て回られた。

 祭りをテーマにした大阪ウィークは、野外ステージで春、夏、秋の3回開催される。大阪府内各地から約40台の「だんじり」や「やぐら」などが集まり、愛子さまはだんじりを熱心に鑑賞された。

10日には、演技がありました。

池田市にて準備の様子:

万博会場への輸送・設置:

5月10日:

2025/5/26 追記:
オリヒメさん達もステージに上がりました。

【勝手に祝辞】2025年、大阪大学入学生に向けて【ご入学おめでとうございます】

この度は、大阪大学へのご入学、誠におめでとうございます。

豊中キャンパスの西に広がる池田市に関するローカルメディア集積点 兼 情報サイト「池田パラボラ」を運営しております 高木 と申します。頼まれもしないのに勝手に祝辞を述べさせていただきます。

阪大のキャンパスは、京都と神戸、さらに先は下関までつながる昔の西国街道(現、国道171号)の少し大阪寄りに並んでいます。

古来より、多くの人が行きかい、情報が流れていました。

道を通じて、あなたは、別の場所を知り、進むことができます。
 
 
 
 別の捉え方として、あなた自身が道の一部になることもできます。

道の一部として、
 A地点の人とC地点の人を結ぶ結節B地点、
 D地点からF地点に行く人の希望としての中間E地点、
 G地点にいる人からI地点にいる人に情報を伝える際の中継H地点
として、機能する人間にもなっていただきたく存じます。

現在、分断という言葉が、頻繁に聞かれます。しかし、世界は分けるものではありません。世界は持ち寄るものです。
 
 
 
 入学試験を合格して入学される方々は、入試の点数が高かった方々です。それは大学入試への適応という画一性を持ちますが、それと同時に学部・学科という多様性を示します。大学では、あなた方それぞれが、それぞれに知を積みます。多様性は広がり、あなた自身は確固たる個別の主体となります。
 
 
 
 道の話に戻して、道の一部としてあなたが機能するためには自信がいります。あなたは、大学を卒業される頃には、知を積む経験を得て、自信を持つことができる状態になります。

自信を持つことができる人が、自信を持っているかは、自分の心持ち次第です。ぜひとも、卒業する際に、自信を持っている心持ちになるよう、なるだけそのような心持ちを醸成できるよう大学生活を送っていただきたく、祈念しております。

この度はご入学おめでとうございます。

呉春(ごしゅん,1752-1811)

呉春(ごしゅん,1752-1811) 画家・俳人。

京都生、与謝蕪村に俳諧と絵画を学ぶ。妻と父を相次いで亡くし失意の中、蕪村の勧めで池田に移り、名を松村月溪から呉春に改める(1782年)。1789年に帰洛の後は円山派と接触を深め、四条派と呼ばれる画風を生み出し京都画壇の中心的地位を獲得。

参考文献: 池田市・池田市教育委員会=編: 続池田学講座 ―人物誌編― (池田市・池田市教育委員会, 2009) p.54.

多才多芸の人。絵画だけでなく、俳諧・横笛・篆刻等に秀でる。食道楽で知られ、上田秋成は随筆『胆大小心録』の中で、呉春が常々「くい物を解せぬ者は、なんにも上手にならぬ」と語っていたと紹介している。

参考文献: 池田市・池田市教育委員会=編: 続池田学講座 ―人物誌編― (池田市・池田市教育委員会, 2009) p.56.

絹本墨画淡彩白梅図〈呉春筆/六曲屏風〉 文化遺産オンライン

川田田福(かわた でんぷく,1721-1793)

川田田福(かわた でんぷく,1721-1793)

俳人。京都の呉服商に生まれ、与謝蕪村に俳諧を学ぶ。池田に出店を構え、日初,荒木蘭皐,稲束太忠,山川星府,井関左言ら池田の文人達と親交を結ぶ。蕪村・その跡を継いだ高井几董と池田の文人の間を仲介した。松村月溪(後の呉春)を池田に迎えた。

参考文献: 池田市・池田市教育委員会=編: 続池田学講座 ―人物誌編― (池田市・池田市教育委員会, 2009) p.52.

黒松光仲(くろまつ みつなか,1749-1821)

黒松光仲(くろまつ みつなか,1749-1821)

心学者。池田生まれ。心学の中枢講舎・明倫社(京都)で手島堵庵・和庵の教えを受けたといわれる。池田に心学講舎「立教舎」を設立した。当初は光仲ら世話人の自宅を会場にしていたが、1817年に託明寺(栄本町)の東隣に常設の会場を設けた。

参考文献: 池田市・池田市教育委員会=編: 続池田学講座 ―人物誌編― (池田市・池田市教育委員会, 2009) p.50.

猪名川政右衛門(いながわ まさえもん,1739-1800)

猪名川政右衛門(いながわ まさえもん,1739-1800)

関取。池田生まれ。1756年、初土俵。明和年間(1764-1772年)、大坂相撲での政右衛門と天満の千田川吉五郎の取組は大変な人気を博し、戯曲「関取千両幟」になる。1786年に引退。猪名川部屋創設。1792年に2代目藤島。新町の西光寺に墓。

参考文献: 池田市・池田市教育委員会=編: 続池田学講座 ―人物誌編― (池田市・池田市教育委員会, 2009) p.48.

大阪府池田市と、五月山動物園公式PRアイドルグループ「Keeper Girls」について