設え(しつらえ)とは、完成度の対象です。
・飽きない意匠
・雑多なアフォーダンスを抱かせない
設え(しつらえ)とは、完成度の対象です。
・飽きない意匠
・雑多なアフォーダンスを抱かせない
【光る君へ】第25回「決意」回想 鴨川の治水に生涯悩まされた道長 白楽天から導かれるもの、紫式部と清少納言の違い 越前和紙で開眼?『源氏物語』でも紙にこだわり 美術展ナビ
全50編からなる白楽天の「新楽府」の最後を飾る「採詩官」です。どんな内容かといえば、「昔の天子は民間から詩歌を採集し、その歌声に耳を傾け、自らの戒めとした。ところが最近はその仕事を担当する採詩の官は設置されず、天子は媚びへつらう言葉ばかり聞かされている。民情をしかと把握しようとするならば、詩歌に風刺の言葉を求められよ」(明治書院「新釈漢文大系 白氏文集 一」から)といったものです。
光る君へ まひろが読んでいた詩 白居易 采詩官 – 新古今和歌集の部屋 [文字化けする漢字は、置換または[]囲みで字の形を記した]
采詩官 采詩の官
采詩聽歌導人言。 詩を采り、歌を聴きて人言を導く。
言者無罪聞者誡、 言ふ者は罪無く、聞く者は誡め、
下情上通上下安。 下の情、上に通じて上下安んず。
周滅秦興至隋氏、 周滅び秦興りて隋氏に至るまで、
十代采詩官不置。 十代、采詩に官置かず。
郊廟登歌讃君美、 郊廟の登歌は、君の美を讃し、
樂府艷詞悦君意。 楽府の艷詞は、君の意を悦ばしむ。
若求興諭規刺言、 若し興諭規刺の言を求めば、
萬句千章無一字。 万句千章に一字も無し。
始從章句無規刺、 始めは章句に規刺無きが従(まか)せたるが、
漸及朝廷絶諷議。 漸く朝廷に諷議絶ゆるに及ぶ。
諍臣杜口為冗員、 諍臣は口を杜(ふさ)ぎて、冗員と為り、
諫鼓高懸作虚器。 諫鼓は高く懸かりて、虚器と作(な)る。
一人負[「戸」冠に「衣」]常端默、 一人、[「戸」冠に「衣」]を負ひて、常に端默(たんもく)し、
百辟入門多自媚。 百辟、門に入りて、多く自ら媚ぶ。
夕郎所賀皆德音、 夕郎の賀する所は、皆、徳音、
春官毎奏唯祥瑞。 春官の毎(つね)に奏するは、唯だ祥瑞。
君之堂兮千里遠、 君の堂は、千里遠し、
君之門兮九重[「門」構えに「必」]。 君の門は、九重に[「門」構えに「必」](と)づ。
君耳唯聞堂上言、 君の耳は、唯だ聞こゆ、堂上の言、
君眼不見門前事。 君の眼には見えず、門前の事。
貪吏害民无所忌、 貪吏は民を害して、忌む所无く、
奸臣蔽君无所畏。 奸臣は君を蔽ひて、畏るる所无し。
君不見厲王、 君は見ずや厲王、
胡亥煬帝之季年、 胡亥、煬帝の季(すゑ)の年、
群臣有利君无利。 群臣に利有りて、君に利无かりしを。
君兮君兮欲聞壅蔽達人情、 君よ君よ、壅蔽を開きて人情に達せんと欲すれば、
先向歌詩求諷刺。 先づ歌詩に向かひて諷刺を求めよ。
春秋. 日本経済新聞, 2024/ 6/16 朝刊, 1面.
三宅玲子さんの「本屋のない人生なんて」は、そんな取り組みを追いかけたノンフィクションだ。
▼取材した書店には「民主主義の手触りが確かにあった」という指摘が印象に残る。思えば本屋というものは、その空間自体が多様な考え方や生き方を教える不思議な場所である。子どものころ、近所の本屋でオトナの世界をのぞいた人も多いだろう。
文章ではなく、文章を書いた人に当たれ。 *o
— TAKAGI-1 高木 一・多様な未来製作所 (@atene_gakudo) May 31, 2024
形容詞を可能・不可能で表現すると、実用的になる。 *o
— TAKAGI-1 高木 一 (@takagi1) September 10, 2014
#ytv #ntv 宮崎駿氏←中川 李枝子女史。子供は形容詞を使わない。
— TAKAGI-1 高木 一 (@takagi1) December 30, 2013
目は、個別の現象を点で捉えます。
頭は、言語を通じて、大きな現象を線で捉えます。
香川 愛生 : 職業、女流棋士 (マイナビ新書, 2018) p.104.
人間はことばを通じて、線の観点で理解を試みることが多いです。
したがって、個別の現象を言語化する必要があります。
・「での」は、「の」に置き換えられないか。
・順番を変えたら、分かりやすくならないか。
・文章同士のつながりをよくできないか。
・場を整え、使いやすくすること。
・リテラシーを獲得し、広く広めること。
・引き込むこと。
「○○したのではなかったのか」
=「○○した(大過去、情報)、という認識に定まった(過去、知識) のではないのか」。
大江 弘松, 松下幸之助と「素直な心」~その成立過程をさぐる~. PHP研究所「研究レポート 通巻7号」1993年6月.
松下幸之助の言う「素直な心」とは、ただ人にさからわない、従順な心という意味ではない。それは、自分の欲望や感情、考えにとらわれることなく物事を見、考え、判断し、行動できる心のあり方である。自分の欲望、感情、考えにとらわることなく物事を見るから、物事全体をあるがままに知ることができる。またなにものにもとらわれることなく考え、判断するから、冷静に今何をなすべきか、何をなしてはならないかを理解できる。そしてまた同様にとらわれることがないから、何のさしさわりもなくなすべきことをなし、またなしてはならないことをしない。つまり、常に適時適切な判断、行動がとれる心のあり方、それが「素直な心」である。