名古屋行きの特急車は『自分たちのもの』…日本の交通機関の『あす』を指さすものであった

身近な新しさは、未来を感じさせます:

木本 正次 : 東への鉄路―近鉄創世紀 (講談社, 1974) p.282.

近鉄(近畿日本鉄道)は、1947年(昭和22年)10月8日から、大阪-名古屋間に座席指定の特急車の運行を開始した:

 佐伯[:当時の近鉄の専務 佐伯 勇。後に、社長・会長・名誉会長。] のその考えは、次第に理解され、賛同されていった。あの荒涼たる時代に、国民はみな夢が欲しかった。いずれは豊かな社会に戻る――その『夢』が、いま現実に目の前を走っている。次第にそう共感してくれる人がふえた。

 当時、国鉄にも各私鉄にも別の豪華電車があり、近鉄では奈良線の全線と大阪線の上本町ー恩智間を走っていた。それは占領軍の専用列車で、それこそピカピカの電車に乗客はごくまばらであった。ぼろぎれのおむつを窓という窓に干し並べた古長屋のような板ぎれ電車が走る中で、この特別車の見事さは敗戦国の象徴そのもので、すべての国民の憎悪と嫉視の的になった。それはこれらの電車が、日本国民とは全く断絶した存在で、未来の夢にはつながらないからであった。どんなにその電車が豪勢でも、また頻発されても、占領軍の使用人以外の日本人には永久に無縁のものだったのである。

 これに対して、名古屋行きの特急車は『自分たちのもの』であった。最初のダイヤでは一日僅かに二往復で、時間も四時間三分もかかったが、それでも日本の交通機関の『あす』を指さすものであった。

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