司馬 遼太郎「坂の上の雲 1」

     

評価・状態: 得られるものが秀逸・多量な本★★★



購入: 2009/ 9/ 2
読了: 2009/11/ 1

U氏による推薦。

関連:
「坂の上の雲」、NHKが「スペシャル大河」に
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司馬 遼太郎「坂の上の雲 1」感想

記事ページ 発行: 2009年11月07日

司馬 遼太郎「坂の上の雲 1」(文春文庫, 1999)の感想です。

連続性


明治の発展は、福沢 諭吉 が「蘭学事始」の序(1890年)に書いたように「偶然に非ず」であった。

連続性は、藩の存続性であった。藩という仕組みは、明治になってからも生き続けた。

教育・知識階級


明治の発展を担った人々は、藩由来の教育制度を受けてきた。

p.12

> 旧幕時代、教育制度という点では、日本はあるいは世界的な水準であったかもしれない。藩によっては、他の文明国の水準をあるいは超えていたかもしれなかった。


p.26.

> ちなみに徳川時代の特殊さは、知識階級が都会におらず地方にいたことであった。各藩がこぞって藩士に学問を奨励したために五、六万石以上の大名の城下といえば知識人の密集地というぐあいにまで幕末はなった。



さらに言えば、藩由来の高度な教育制度は、長期にわたる江戸時代の太平によって、もたらされたことも事実であろう。

倒幕勇藩以外の藩がもった未来志向


倒幕勇藩以外の藩は奮起した。「米百俵の精神」は長岡藩に限ったことではなかった。

p.68.

> 好古はあの士官学校の試験のあと、本郷からこの話をきいて、
 ――[丹波]篠山はばかにならぬ。
 とおもった。


p.122.

 ちなみに、維新に乗りおくれた中以上の藩のほとんどがこの目的による育英団体をもっていたという点からみれば、日露戦争までの日本というのは諸藩の秀才競争社会であったともいえるであろう。



移行期の常態超えの出力


しかし、藩は徐々に消えていく。中央集権国家が形成されていく。

藩は諸藩は外国さらに他藩から独立していた。よって、諸藩は小さな単位ですべてをまかなわねばならない「混成旅団」であった。制限された環境のなかで、人々は強靱になっていった。

そのような強靱な人々が、制限が取り払われ、外国に開いた明治の日本において働いた。

藩から中央集権国家への移行期ならではの常態超えの出力が達成されたのである *。

p.112.

>日本人の意識転換の能力のたくましさ



* 対して、移行期ならではの損失は、小さかった。

pp.111-112.

> 余談ながら、徳川三百年は江戸に将軍がいるとはいえ、三百諸侯が地方々々にそれぞれの小政権をもち、城下町を充実し、そこを政治、経済、文化の中心たらしめていた。
 が、それが、明治四年の廃藩置県でにわかにくずれ、日本は東京政府を中心とする中央集権制になった。
 「たいへんな変改だ」
 と、これには、幕末から明治初年にかけて駐在した英国公使パークスをおどろかしめている。パークスがおどろいたのはこの改革じたいが革命そのものであるのに、一発の砲弾のもちいずして完了したことであった。 パークスはこれを奇蹟とした。



 

織田信長と「坂の上の雲」

記事ページ 発行: 2010年02月28日

「坂の上の雲」1巻〜4巻における織田信長に関する記述を集めた。

司馬 遼太郎 : 坂の上の雲 1 (文春文庫, 1999) pp.266-267, 269.

 老教官は、おそるべきことをいった。
 ――騎兵は無用の長物だ。
という。
「古来、騎兵はその特性どおりにつかわれた例はきわめてまれである。中世以後、四人の天才だけが、この特性を意のままにひきだした。」
 かれはその四人の名前をあげた。

  モンゴルのジンギス汗
  プロシャのフレデリック大王
  フランスのナポレオン一世
  プロシャの参謀総長モルトケ

 老教官にいわせると、騎兵は歩兵や砲兵とちがい、純粋の奇襲兵種であり、よほど戦理を心得、よほど戦機を洞察し、しかもよほどの勇気をもった者でなければ、これはつかえない。

...

「つまり日本人を二人加えろというのかね。たれとたれだ」
 好古は、源義経と織田信長の二人をあげ、鵯越と屋島における戦法を説明し、織田信長については桶狭間合戦を語った。
 老教官はおどろき、何度もうなずき、以後六人ということにしよう、といった。


司馬 遼太郎 : 坂の上の雲 3 (文春文庫, 1999) p.285.

 戦術の要諦は、手練手管ではない。日本人の古来の好みとして、小部隊をもって奇策縦横、大軍を翻弄撃破するといったところに戦術があるとし、そのような奇功のぬしを名将としてきた。源義経の鵯越の奇襲や楠木正成の千早城の籠城戦などが日本人ごのみの典型であろう。

 ところが織田信長やナポレオンがそうであるように、敵に倍する兵力と火力を予定戦場にあつめて敵を圧倒するということが戦術の大原則であり、名将というのはかぎられた兵力や火力をそのように主決戦場にあつめるという困難な課題について、内や外に対しあらゆる駆けひきをやり、いわば大奇術を演じてそれを実現しうる者をいうのである。あとは「大軍に兵法なし」といわれているように、戦いを運営してゆきさえすればいい。


司馬 遼太郎 : 坂の上の雲 4 (文春文庫, 1999) pp.256-257.

 敵よりも大いなる兵力を終結して敵を圧倒撃滅するというのは、古今東西を通じ常勝将軍といわれる者が確立し実行してきた鉄則であった。日本の織田信長も、わかいころの桶狭間の奇襲の場合は例外とし、その後はすべて右の方法である。信長の凄みはそういうことであろう。かれはその生涯における最初のスタートを「寡をもって衆を制する」式の奇襲戦法で切ったくせに、その後一度も自分のその成功を自己模倣しなかったことである。桶狭間奇襲は、百に一つの成功例であるということを、たれよりも実施者の信長自身が知っていたところに、信長という男の偉大さがあった。

 日本軍は、日露戦争の段階では、せっぱつまって立ちあがった桶狭間的状況の戦いであり、児玉の苦心もそこにあり、つねに寡をもって衆をやぶることに腐心した。

 が、その後の日本陸軍の歴代首脳がいかに無能であったかということは、この日露戦争という全体が「桶狭間」的宿命にあった戦いで勝利を得たことを先例としてしまったことである。陸軍の崩壊まで日本陸軍は桶狭間式で終始した。

...

「日露戦争はあの式で勝った」
 というその固定概念が、本来軍事専門家であるべき陸軍の高級軍人のあたまを占めつづけた。織田信長が、自己の成功体験である桶狭間の自己模倣をせず、つねに敵に倍する兵力をあつめ、その補給を十分にするということをしつづけたことをおもえば、日露戦争以後における日本陸軍の首脳というのは、はたして専門家という高度な呼称をあたえていいものかどうかもうたがわしい。そのことは、昭和十四年、ソ満国境でおこなわれた日本の関東軍とソ連軍との限定戦争において立証された。

 この当時の関東軍参謀の能力は、日露戦争における参謀よりも軍事知識は豊富でありながら、作戦能力がはるかに低かったのは、すでに軍組織が官僚化していてしかもその官僚秩序が老化しきっていたからであろう。



 

国民皆兵の継続的な「決戦戦争」

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