鉄道 TAKAGI-1 みくすと 土曜版

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大阪のインバウンドブームの一端を担う民泊。国家戦略特区で5月末時点で認定された大阪市の特区民泊2467施設を分析すると面白いことがわかった。トップは浪速区の471件で、中央区の455件、西成区の429件と続く。さらに細かく見ると1位が中央区島之内の103件、2位が同区日本橋で80件、西成区天下茶屋が75件で3位、浪速区恵美須西が69件で4位と続く。

これらはすべて大阪市の南北を貫く大阪メトロ堺筋線に沿っている。沿線には天神橋筋商店街、電気街の日本橋、通天閣や新世界があり、心斎橋筋商店街も遠くない。天下茶屋経由で関西国際空港にも便利だ。御堂筋線沿線に比べ、格安な民泊施設を設けやすい。



- 堺筋線は民泊ライン チャートは語る インバウンド(上) 関空・観光地 行きやすく :日本経済新聞

[ Posted Wed, 07 Aug 2019 06:33:43 ]

 


ひなびた農村にニュータウン開発という千年ぶりのにぎわいが押し寄せたのは能勢電にとって大きなチャンスだった。親会社になったばかりの阪急電鉄は1963年、一人の男を能勢電の専務に送り出した。

 60年まで阪急ブレーブスの代表を務めた村上実。当時56歳で、別の子会社の役員を務めていた。

    ◇

 もともと阪急百貨店の家具売り場で働いていた村上は35年、当時の小林一三社長から「プロ野球団をつくれ」と指令を受けた。発足を翌年に控えたプロ野球リーグに参入するため、元慶応大野球部マネジャーの経歴が買われた。

 能勢電の近代化という特命を受けた村上は、球界で培った経験を生かす。まず唱えたのはチームワークの大切さ。弱い球団ほど内部にトラブルを抱えていた。赤字に意気消沈する社員を励まし、「会社経営も野球と同じ。監督が頑張っても、選手が動いてくれなければだめだ」と説いた。

 銀行からの融資は窓口で断られたが、野球人脈を駆使してトップと直接交渉。粘り強く説明して資金を引き出した。逆境でもあきらめない姿勢は、勝負にこだわった世界で身についていた。

 66年に専務から社長へ昇格し、翌年から複線化とカーブを減らす工事が始まった。トンネルを掘り、鉄橋を架け、77年までに一部区間を除いて線路を敷き直した。78年には日生中央まで延伸する支線も開通。「ノロ電」は都市近郊型電車に生まれ変わり、90年代半ばまで乗客数を増やしていった。

 81年に社長を退いた村上は、後に社内誌で当時の心情を吐露している。「プロ野球経営に明け暮れた私にとって当社は第二の人生であった」「心の炎はいまだ燃えることをやめようとしない」――。99年に92歳で亡くなるまで相談役として能勢電にかかわった。



- asahi.com(朝日新聞社):カーブにまっすぐ勝負 能勢電鉄 - 関西

[ Posted Thu, 08 Aug 2019 07:28:39 ]

 


鉄道の要衝地でもあった大垣は、鉄道黎明期を支えた優秀な人材を多く輩出したことでも特筆される。

大垣藩出身者の一部を列挙すると、鉄道の父・井上勝の後を受けて2代目鉄道庁長官を務め、鉄道の母とも称される松本荘一郎、養老鉄道をはじめ京急の前身である大師電気鉄道を立ち上げた立川勇次郎、京浜電鉄(現・京急電鉄)社長・東京地下鉄道(現・東京メトロ)社長・南満洲鉄道(満鉄)社長を務めた野村龍太郎、1921年に東京駅北口に開館した鉄道博物館の初代館長を務めた那波光雄、近畿日本鉄道社長を務めた種田虎雄ら、そうそうたる面々が並ぶ。

優秀な鉄道人材を多く輩出した大垣は、「陸軍の長州、海軍の薩摩」と並び、明治政府内から「鉄道の大垣」と言われるほどだった。



- 夜行列車の終点、「大垣」が築いた独自の存在感 | 駅・再開発 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

[ Posted Fri, 09 Aug 2019 19:53:57 ]

 

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