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<<2012/12/01 <2012/12/28 || 2012/12/30> 2013/01/26>>
2012/12/29
“ズムウォルト・ミサイル駆逐艦の建造風景、タイムラプス映像 : 銃とバッジは置いていけ” http://htn.to/ou8zjH
posted at 07:48:40
大事なのは戦略ですか? -- そうさ。…… -- 重視されるのは、創造と構想ですね。-- そうだ。……なぜ戦うのか。目的を達成するために何を為すべきか、[上層部は]何も考えていない。敵がいれば戦って、勝てばよいとしか思っていないのだ。―銀河英雄伝説 外伝1 2話 #LOGH #*
posted at 09:20:08
支配される者の寛容さが支配者を増長させ、統治から緊張を失わせるのではないか。 ――銀河英雄伝説 外伝1 7話 #LOGH #*
posted at 12:26:48
RT @ymd_tkc: デザイナーはテプラを貼られたら負け。伝わってなさすぎ。 http://t.co/8yjNsdI1
posted at 12:29:00
リアルで、ニーハイ少女 眼帯つき とすれ違う。
posted at 14:18:01
#UCC の #Eva 缶の綾波レイの紺色タンクトップ姿が肉感的。綾波はそうじゃないだろ。黒波さん(=アヤナミレイ(仮称))?
posted at 18:37:23
やっぱりエレクトラさんはエエなぁ。 #ナディア
posted at 18:38:03
初当選を果たされた方、カムバックを果たされた方、また、難しい条件をクリアされた方、それぞれいらっしゃるが、先ずはおめでとう。
かつて日本経済が順風満帆の時代は、放っておいても経済が成長し税収も増えた。従って、政治家の仕事は、その富を分配するいい仕事だった。
しかし、(成長が止まり税収も)減ってくると、今度は削らなければならない仕事になる。それは、あまり割のいい仕事ではない。簡単に言えば、既得権益をはく奪したり予算を減らすことで、決して楽しい仕事ではない。しかし、この「マイナスの配分」こそ、リーダーとして政治家がやらねばならないことだと思っている。
税と社会保障、エネルギー政策、通商交渉など、いずれも複雑で深刻な問題だが、その問題点をあげつらうのは野党(の仕事)だ。与党は不人気を覚悟してやらねば国がもたない。日本の将来を考え、「マイナスの配分」を覚悟してやらねばらない。政権政党として、これまでいろいろ言われながらもそれをやってきたのが、自由民主党の矜持、誇りだ。
ただ、それをやったからといって、決していい思いをすることはない。マスコミに褒めて書かれることもない。だけど、やらねばならない。こうした割の合わない仕事に真摯に取り組むことこそ、政治家の矜持であって、冥利に尽きると思ってやらないと、この仕事は長く続けられるものではない。
こうして為公会の仲間が増えたので、ぜひ、我々と一緒に国難に立ち向かってほしい。何の為に当選したかと言えば、単にバッチを付ける為ではない。郷土の為に頑張ろうと思っているはずだ。そういう方に一人でも多く為公会に入っていただくなら、心から歓迎する。
最後に一つ。今回の選挙でつくづく感じたことがある。「解散を避けようとした」民主党。「解散しろと迫った」自民党。選挙に臨む姿勢が、結果、これだけの差になった。従って、「選挙がいつあってもいい」という腹の据わりが重要で、その為には普段からの準備が一番大事だ。どういう形で次の選挙があるか分からないが、「選挙ほど楽しいものはない」と思えるようでないとこの稼業は務まらない。皆さんが「選挙があるといいな」と思えるくらいになるよう、これからの努力に期待している。
皆さんを心から歓迎する。おめでとう。
麻生太郎オフィシャルサイト (via darylfranz)
たくさんのカニをバケツにいれておくと、フタをしなくても逃げないという。一匹がバケツから逃げようとすると他のカニに引きずり降ろされるからだ。このカニバケツの話は、突出するものを許さない日本社会のたとえによく使われる。けれども実は、Crab bucket syndrome としてアメリカでも知られている言葉なのだ。(12p)
[ Posted Sat, 29 Dec 2012 06:04:18 ]
「USAカニバケツ」町山智浩からアメリカの現実を学ぶ - 再出発日記 - 楽天ブログ(Blog) (via ginzuna)
こういう感じ…。
ロボットアニメとしてのパトレイバーを自分が好きだったのは、整備班が主題の一つだったから。たとえばガンダムやマクロスを好きになれなかったのはたぶんその違いなのだと思う(攻殻機動隊も整備シーンは出てくるけど、パトレイバーほどには力点を置いてないように見える)。機械は「動くことが当たり前」の状態であるために時に凄まじいまでの整備が要求される。ロボットだけじゃなく、飛行機も車も自転車も。
昭和20年(1945年)2月のある日、ベトナムの日本陸軍宣伝部の佐野裕二氏は鈴木部長に呼ばれました。
「これタイプしてくれないか」
佐野氏はフランス語で書かれた文をタイプしようとして驚きました。ベトナム独立宣言の草案だったのです。当時ベトナムはフランスに植民地支配されていました。佐野氏は顔が熱くなり「近いな、近づいてきたな。ベトナム植民地80年の歴史に終わりが近づいているのだ」と感じました。
戦局が逼迫してきた昭和20年(1945年)2月1日、日本最高戦争指導会議「情勢の変化に応ずる仏印処理に関する件」を決定。ベトナムのフランス総督が外交要求の呑まない場合は武力処理することになりました。
3月9日18時(現地時間)、日仏間で米の供与に関する調印を行った後、日本側は「フランス軍は日本軍隷下に入ること」という要求を出し、2時間以内の回答を迫りました。フランス側の回答を持った使者は遅れ(回答はノー)、「7・7・7」の武力発動の暗号が発せられました。
北部では第37師団がランソン要塞、ドンダン要塞、カオバン要塞を攻撃。第21師団は北部ラオス方面、第22師団は北部国境監視、中部は独立混成第34旅団、南部は独立混成第70旅団、カンボジア方面は第2師団が作戦を展開。日本軍は3万、フランス軍は9万。フランス軍は日本軍の行動は察知しており各所の防御を堅固なものにしていましたが、大きな弱点がありました。フランス軍は80%がベトナム人で、10%外人部隊、10%がフランス人でした。このため士気が高くなく日本軍の猛攻の前に投降するベトナム人が少なくなく、投降するとフランス軍の事情をペラペラとしゃべりました。
夜が明けるとほぼ大勢が決しました。ベトナム人にとってはこの武力行使は寝耳に水であり、一夜にしてフランス軍を撃破した日本軍に驚嘆しました。何しろベトナムは80年間フランスと何度戦っても勝てなかったのです。そのうち驚きは喜びに変わっていきました。
独立混成34旅団二宮隊は10日にサイゴン(現ホーチミン)の市役所摂取に乗り出すと、どこでどうして作ったのか、早くも十数本の日の丸やベトナム独立の旗が乱立し、黒山のような民衆であふれかえっていました。その中から一老人が二宮隊長の前に来て一本の竹竿を差し出しました。竹の先には一通の書状が挟んでありました。
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献、日本軍部隊長閣下
仏国(フランス)の虐政下、安南(ベトナム)の民、塗炭の苦に喘ぐ、暦歳八十年、日月暗し。
民志破れ、天意動かず。自由の夢、遙かに遠し。
この秋(とき)、独立の曙光、皇軍となりて東方より来る。
即(すなわ)ち、今朝、起つや忽(たちま)ち仏軍を追放し、長恨の民を解放し、独立の気概を与う。
日本軍の真姿、今ぞ眼前に見たり、将(まさ)に皇軍。
安南の黎明、今此処に明けんとす、人民歓喜、決起して之を迎う。
一九四五年三月十日 越南復国同盟サイゴン市民連合会
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この報告を受けた大窪大隊長は「軍司令官から感状を貰うより、この安南民族からの感謝状の方が嬉しい」とこたえました。
グエン王朝の保大帝は武力処理を伝える日本の特殊工作員に涙を流して感謝し、「戦争終了後は友邦日本とともに苦難を越えて共同してゆきたい」と答えられました。
10日、日本軍布告
「日本軍はインドシナ全住民の熱望する独立を実現するために、いかなる努力も惜しまないであろう」
3月15日、フエの街で独立祝賀隊のデモ隊が王城に殺到しました。人々の顔は喜びであふれていました。保大帝はフエの王城で独立を宣言しました。カンボジアは13日に独立を宣言。ラオスは4月8日に独立を宣言しています。