瀧井 一博「伊藤博文 知の政治家」

     

評価・状態: 積ん読・読書中

Kindle 版


新書


購入: 2015/ 5/10 (Kindle 版)

ブクログ - web本棚サービス


この情報は2024年6月現在の情報です。現在の状態はこちら

この本からの引用、または非常に関連する記事

全 4 件

理論と実証・歴史

記事ページ 発行: 2015年07月04日

・理論
・実証・歴史

瀧井 一博 : 伊藤博文 知の政治家 (中央公論新社, 2013 〈底本は中公新書(2012)〉) 位置No. 1258/5538.

けれども、伊藤がヨーロッパで見出したのは、そのような抽象的自然法論から歴史主義的思考への転換という事態の進展だったのである。






関連:
記載・実験・理論
http://chiq.blog116.fc2.com/blog-entry-174.html

 

伊藤博文の思想が、知的制高面の構築を後押しする

記事ページ 発行: 2015年06月20日

本文章は、「4つエンジンの日本にしよう――知性強靱社会の実現のために」第4章 に組み込まれています


伊藤 博文 の思想を材料にして、「知的制高面」をコンセプトとする仕組みが継続的に存在・活動し、確固として認識されることが必要である、という結論が導けます。

* * *

(1) 瀧井 一博 : 伊藤博文 知の政治家 (中央公論新社, 2013 〈底本は中公新書(2012)〉) 位置No. 1148/5538.

伊藤は立憲体制を布くには、それに先立って、新しい国制に見合った新たな知の制度化が不可欠だと考えていた。ここに来て彼は、国家というものがまた知を基盤として成り立っているという考えに至ったのである。

新しい時代には、新しい知の〈制度〉が必要です。

それは、国という単位においてだけではありません。あらゆる単位(社会、組織、集団 等)において言えます。

瀧井 一博 : 伊藤博文 知の政治家 (中央公論新社, 2013 〈底本は中公新書(2012)〉) 位置No. 407/5538.

伊藤にとって制度とは、単に諸個人の自由を枠付けるものばかりではなく、そこに調和を与えて、より高次の国家的活動を実現するためのものだったと言えよう。

すなわち、あらゆる単位(社会、組織、集団 等)において、新しい、知に関する活動の実現を志向した調和が必要です。(*)

したがって、「大国高民論」において掲げたコンセプト“知的側面を強化した国民多数によって構成されるネットワーク「知的制高面」”に着目することには、意味があります。


(2) 知に関する活動の実現を志向した調和のためには、知に関する場や仕組みが、継続的に存在・活動し、確固として認識されることが必要です。

  なぜならば:
  調和は、場や仕組みの継続的な存在・活動を示唆します。

  また調和という“はたらき”を持つためには、認識されることが必要です。なぜならば、知の世界において認識されないものはいかなる“はたらき”も持たないからです。

したがって、「知的制高面」をコンセプトとする場や仕組みが継続的に存在・活動し、確固として認識されることが必要です。


* * *

特別補足:
これを具現する一つが、多くの人々がつながり、持ち寄られた知性と、それを支援する装置によって、社会が問題を解決する能力を高める場である「知的ネット社会」です。

補足:
* 「調和」という言葉は、この投稿を書いて得られたひとつの果実です。「調和」は、価値の可視化(「創造とは何かを造ることではなく価値を可視化することだ」)のキーワードであり、「何か」の発見の「何か」です。

 

文部科学省報告書の誤りに〈知の基盤〉を考える

記事ページ 発行: 2015年06月27日

文部科学省生涯学習政策局情報教育課が 2015年 6月10日に公開を開始した「諸外国におけるプログラミング教育に関する調査研究」報告書が、同12日に非公開になった。

内容に誤りが多かったことが原因のようだ:

文部科学省の考えるコンピュータの歴史 | yasuokaの日記 | スラド
文部科学省が「諸外国におけるプログラミング教育に関する調査研究」報告書を非公開に | yasuokaの日記 | スラド

伊藤 博文は、「国家というものがまた知を基盤として成り立っているという考え」に至ったとされる:

瀧井 一博 : 伊藤博文 知の政治家 (中央公論新社, 2013 〈底本は中公新書(2012)〉) 位置No. 1148/5538.

伊藤は立憲体制を布くには、それに先立って、新しい国制に見合った新たな知の制度化が不可欠だと考えていた。ここに来て彼は、国家というものがまた知を基盤として成り立っているという考えに至ったのである。

これは、国に限らない。あらゆる単位が、知を基盤に成り立っている。

例えば、情報教育関係者という単位である。

「諸外国におけるプログラミング教育に関する調査研究」報告書を書いた人、それをチェックした人は、その内容の誤りに気づかなかった。基盤とする知が十分に共有されていなかったのである。

言い方を換えると、今回の報告書で基盤とする知が造られようとしていた。しかし、その内容をチェックする知が、関係者に共有されていないために、誤りに満ちた脆弱な基盤が造られるところであった。


さて、この報告書が公開されて、誤りを指摘した人が多数いたのであろう。公開のわずか 2日後に、内容を確認することを理由に非公開になった。

基盤とする知をもっている人はいる。

それは内部だけではなく、外部にも存在する。外部によって誤り訂正ができるのだ。

基盤とする知をもつ外部を、単に多数の個だと捉えるのではなく、調和あるものにする(そのように捉える)ことによって、より高次の活動を実現できるであろう。

瀧井 一博 : 伊藤博文 知の政治家 (中央公論新社, 2013 〈底本は中公新書(2012)〉) 位置No. 407/5538.

伊藤にとって制度とは、単に諸個人の自由を枠付けるものばかりではなく、そこに調和を与えて、より高次の国家的活動を実現するためのものだったと言えよう。



関連:
伊藤博文の思想が、知的制高面の構築を後押しする
http://nhm.blog75.fc2.com/blog-entry-626.html

 

世の中すべて、知 ばかり

記事ページ 発行: 2015年07月11日

伊藤 博文は、「国家というものがまた知を基盤として成り立っているという考え」に至ったとされる:

瀧井 一博 : 伊藤博文 知の政治家 (中央公論新社, 2013 〈底本は中公新書(2012)〉) 位置No. 1148/5538.

伊藤は立憲体制を布くには、それに先立って、新しい国制に見合った新たな知の制度化が不可欠だと考えていた。ここに来て彼は、国家というものがまた知を基盤として成り立っているという考えに至ったのである。

これは、国に限らない。あらゆる単位が、知を基盤に成り立っている。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

これは、鴨長明「方丈記」の冒頭である。

情報の川、そして、うたかたの知である。

うたかたは保存されないが、知は保存される。知はこうして生まれ、構造化されていく。

構造化のなかでも、直線構造に近い、単純だが情報量に富む知の形態が、ストーリーである。この世界は、反証に耐えたストーリーで塗り固められている。

 

↓下に表示している「関連書籍・記事」だけを新しいページに表示する:

|


© TAKAGI-1