梅棹 忠夫「メディアとしての博物館」

     

評価・状態: 暇つぶしになる良質な本★☆☆



購入: 2009/ 7/ 6
読了: 2009/ 8/ 7

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この本からの引用、または非常に関連する記事

全 3 件

Webサイト・ブログは情報機関である

記事ページ 発行: 2010年03月06日

Webサイト・ブログは情報機関である。

梅棹 忠夫 : メディアとしての博物館 (平凡社, 1987) p.24.

>大量の情報を蓄積し、処理し、提供する情報機関としての博物館こそは、このような情報化の時代にもっとも適合した存在であるといえるでしょう。



 

言語の限界

記事ページ 発行: 2010年08月15日

谷川 流 : 涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫, 2006) p.214.

「言語では概念を説明出来ないし理解も出来ない」


● ある言語の限界による損失

司馬 遼太郎 : 坂の上の雲 2 (文春文庫, 1999) p.319.

「和歌の腐敗というのは」
 と、子規はいう。
「要するに趣向の変化がなかったからである。なぜ趣向の変化がなかったかといえば、純粋な大和言葉ばかり用いたがるから用語がかぎられてくる。


知の国産

自国言語で技術が語られないことの、国的な損失は多大である。

立花 隆 : ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術 (文藝春秋, 2003) pp.176-177.
> 福居浩一『タイ文字を創れ』(化学同人 二八〇〇円)は、海外技術協力の一環として、タイ、インドネシア、ビルマなどで、技術書をその国の言葉で出版する事業に取り組んだ日本人の物語である。
 東南アジアに限らず、発展途上国では、従来、技術書が現地語で出版されることはなかった。

> 幾多の難関をのりこえて、...といった一般向けの技術書が五十八点も各地で出版され、大歓迎される。現地語の技術書が出ることで、その国の技術水準が大幅に上がる。


梅棹 忠夫 : メディアとしての博物館 (平凡社, 1987) p.146.

東南アジアからきた青年たちは、英語の説明がないのをもどかしがったが、やがてハッと気がついていった。
「そうか、日本語は英語やフランス語とおなじように、それだけでなんでもいえる言語なんですね」
かれらの母国語では、なんでも表現できるわけではないので、とくに学術的な事項を説明するためには、英語はかれらにとって絶対必要だと感じられていたのである。... わたしたちは日本語でなんでもいえるのである。


金谷 治 訳注 : 論語 (岩波文庫, 1999) p.249-250.

巻第七 子路第十三 3 より抜粋

名不正則言不順、言不順則事不成、事不成則禮樂不興、禮樂不興則刑罰不中、刑罰不中則民無所措手足、故君子名之必可言也、言之必可行也、君子於其言、無所苟而已矣、

名正しからざれば則ち言順わず[:したがわず]、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、礼楽興らざれば則ち刑罰中らず[:あたらず]、刑罰中らざれば則ち民手足を措く所なし。故に君子はこれに名づくれば必ず言うべきなり。これを言えば必らず行うべきなり。君子、其の言に於いて、苟くもする所なきのみ。

名が正しくなければ [*] ことばも順当でなく、ことばが順当でなければ仕事もできあがらず、仕事ができあがらなければ、儀礼や音楽も盛んにならず、儀礼や音楽が盛んでなければ、刑罰もぴったりゆかず、刑罰がぴったりゆかなければ人民は〔不安で〕手足のおきどころもなくなる。だから君子は名をつけたら、きっとことばとして言えるし、ことばで言ったらきっとそれを実行できるようにする。君子は自分のことばについては決していいかげんにしないものだよ。

* 名と実があっていること


● 言語の本質的限界

米盛 裕二 : アブダクション―仮説と発見の論理 (勁草書房, 2007) p.221.

言葉の曖昧さや不明瞭さを言語の欠陥としてのみみなし、それを一掃し、日常の言語を、いわば純化すれば、「理想的」言語が得られると考えるのは、言語の本質を全く誤解するものである

...

[自然言語に対する] 形式言語は、われわれが存在している世界において伝達のために用いる言語としては役に立たないということである (17)

(17) シドニー・フック編『言語と理想』三宅鴻・大江三郎・池上嘉彦訳、研究社、一九七四年、二二七頁。


「文章もインターフェイスである」

● 言語の拡張

ハイパーテキストという表現手法

詩と歌 (他のメディアとの組み合わせによる拡張)

 

企業博物館

記事ページ 発行: 2012年11月03日

梅棹忠夫の「メディアとしての博物館」(1987)に書かれた企業博物館論と、小林弘人の「メディア化する企業はなぜ強いのか」(2011)に書かれた内容は共通する。1社だけでなく業界全体を描くこと(アンブレラ戦略)の紹介、演出の重要性などである。

考えてもみれば、Web以前に、企業が人々と長時間接し得る場所は、企業博物館しかなかったのだ。

 

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