夏目漱石 『野分』 「高柳さん」…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 夏目漱石 『野分』

現代語化

「高柳さん」
「はい」
「世の中って苦しいものですよ」
「苦しいです」
「知ってますか?」
「知ってるつもりですけど、いつまでもこう苦しくっちゃ……」
「やり切れませんか。あなたはご両親がいらっしゃいますか?」
「母親だけ田舎にいます」
「お母さんだけ?」
「ええ」
「お母さんだけでもいれば十分でしょ」
「全然十分じゃないです。――早くどうにかしないと、もう年を取ってるから。私が卒業したら、なんとかできるだろうと思ってたんですけど……」
「そう、近頃みたいに卒業生が増えちゃって、ちょっと、就職するのが難しいですよね。――どうですか、田舎の学校に行く気はありませんか?」
「時々田舎に行こうとも思うんですが……」
「またいやになるでしょ。――そうさ、あまり勧められもしない。私も田舎の学校はだいぶ経験があるから」
「先生は……」
「ええ?」
「先生は――あの――雑誌を編集するんだって本当ですか?」
「ええ、この間から引き受けてます」
「今月の論説に解脱と拘泥ってのがありましたけど、あの憂世子ってのは……」
「あれは、私です。読みましたか?」
「ええ、すごく面白かったです。失礼ですが、あれは私が言いたいことをすごくレベルアップして、表現したものみたいで、ためになったし痛快でした」
「それは良かったです。それじゃあなたは私の知己ですね。たぶん世の中で唯一の知己かもしれません。はははは」
「そんなことないでしょう」
「そうですか、それじゃなおさら嬉しいです。でも今まで私の文章を読んで褒めてくれた人は一人もいません。あなただけです」
「これからみんな褒めるようになると思います」
「はははは、そんな人がせめて100人もいてくれたら、私も本望なんですが――ずいぶん変なこともありましたよ。この間なんか妙な男が訪ねてきてね。……」
「何ですか?」
「まあ商売人なんですがね。どこから聞いたのか、あなたは雑誌やってるから文章も書いてるだろうって言うんです」
「へえ」
「書いてるとかまあ言いました。するとその男が、一つ眼薬の広告を書いてくださいって言うんです」
「バカなやつですね」
「その代わり雑誌に眼薬の広告を出すからぜひお願いしますって――なんでも点明水とかいう名前なんですがね……」
「変な名前ですね。――書きましたか?」
「いえ、結局断りましたが。それでまだおかしいことがあるんです。その薬屋で売り出しの日に大きな風船を上げるんだって言うんです」
「お祝いのためですか?」
「いえ、やはり広告のため。でも風船は音も立てずに高い空を飛んでるから、仰向けになって見たり仰向けさせたりしないといけないでしょ」
「へえ、なるほど」
「それで私にその、仰向けにする役をやってくれって言うんです」
「どうするんですか?」
「何、道を歩いてても、電車に乗っててもいいから、風船を見たら、おや風船だ風船だ、あれはきっと点明水の広告に違いないって何度も何度も言うんだそうです」
「はははは、随分思い切って人をバカにした依頼ですね」
「おかしいやらバカバカしいやらですが、別にそんなことをするなら私じゃなくてもいいでしょう。人力車夫でも雇えばいいじゃないかって聞いたんです。するとその男が、いえ、人力車夫なんてもっともらしくなくて駄目です。やっぱりヒゲを生やして立派そうな顔した人に頼まないと、人は信じませんからって言うんです」
「本当に失礼なやつですね。そもそも何者ですか?」
「何者って、やっぱり普通の人ですよ。世の中をだますために人を雇いに来たんです。のんきなものさ、はははは」
「なんだかびっくりです。私ならぶん殴ってやります」
「そんなやつを殴ったら、みんな順番に殴らなきゃいけなくなります。君、そんなに怒ってますけど、今の世の中ってそういうやつばっかりでできてるんですよ」

原文 (会話文抽出)

「高柳さん」
「はい」
「世の中は苦しいものですよ」
「苦しいです」
「知ってますか」
「知ってるつもりですけれど、いつまでもこう苦しくっちゃ……」
「やり切れませんか。あなたは御両親が御在りか」
「母だけ田舎にいます」
「おっかさんだけ?」
「ええ」
「御母さんだけでもあれば結構だ」
「なかなか結構でないです。――早くどうかしてやらないと、もう年を取っていますから。私が卒業したら、どうか出来るだろうと思ってたのですが……」
「さよう、近頃のように卒業生が殖えちゃ、ちょっと、口を得るのが困難ですね。――どうです、田舎の学校へ行く気はないですか」
「時々は田舎へ行こうとも思うんですが……」
「またいやになるかね。――そうさ、あまり勧められもしない。私も田舎の学校はだいぶ経験があるが」
「先生は……」
「ええ?」
「先生は――あの――江湖雑誌を御編輯になると云う事ですが、本当にそうなんで」
「ええ、この間から引き受けてやっています」
「今月の論説に解脱と拘泥と云うのがありましたが、あの憂世子と云うのは……」
「あれは、わたしです。読みましたか」
「ええ、大変面白く拝見しました。そう申しちゃ失礼ですが、あれは私の云いたい事を五六段高くして、表出したようなもので、利益を享けた上に痛快に感じました」
「それはありがたい。それじゃ君は僕の知己ですね。恐らく天下唯一の知己かも知れない。ハハハハ」
「そんな事はないでしょう」
「そうですか、それじゃなお結構だ。しかし今まで僕の文章を見てほめてくれたものは一人もない。君だけですよ」
「これから皆んな賞めるつもりです」
「ハハハハそう云う人がせめて百人もいてくれると、わたしも本望だが――随分頓珍漢な事がありますよ。この間なんか妙な男が尋ねて来てね。……」
「何ですか」
「なあに商人ですがね。どこから聞いて来たか、わたしに、あなたは雑誌をやっておいでだそうだが文章を御書きなさるだろうと云うのです」
「へえ」
「書く事は書くとまあ云ったんです。するとねその男がどうぞ一つ、眼薬の広告をかいてもらいたいと云うんです」
「馬鹿な奴ですね」
「その代り雑誌へ眼薬の広告を出すから是非一つ願いたいって――何でも点明水とか云う名ですがね……」
「妙な名をつけて――。御書きになったんですか」
「いえ、とうとう断わりましたがね。それでまだおかしい事があるのですよ。その薬屋で売出しの日に大きな風船を揚げるんだと云うのです」
「御祝いのためですか」
「いえ、やはり広告のために。ところが風船は声も出さずに高い空を飛んでいるのだから、仰向けば誰にでも見えるが、仰向かせなくっちゃいけないでしょう」
「へえ、なるほど」
「それでわたしにその、仰向かせの役をやってくれって云うのです」
「どうするのです」
「何、往来をあるいていても、電車へ乗っていてもいいから、風船を見たら、おや風船だ風船だ、何でもありゃ点明水の広告に違いないって何遍も何遍も云うのだそうです」
「ハハハ随分思い切って人を馬鹿にした依頼ですね」
「おかしくもあり馬鹿馬鹿しくもあるが、何もそれだけの事をするにはわたしでなくてもよかろう。車引でも雇えば訳ないじゃないかと聞いて見たのです。するとその男がね。いえ、車引なんぞばかりでは信用がなくっていけません。やっぱり髭でも生やしてもっともらしい顔をした人に頼まないと、人がだまされませんからと云うのです」
「実に失敬な奴ですね。全体何物でしょう」
「何物ってやはり普通の人間ですよ。世の中をだますために人を雇いに来たのです。呑気なものさハハハハ」
「どうも驚ろいちまう。私なら撲ぐってやる」
「そんなのを撲った日にゃ片っ端から撲らなくっちゃあならない。君そう怒るが、今の世の中はそんな男ばかりで出来てるんですよ」


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