夏目漱石 『野分』 「解脱と拘泥……憂世子」…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 夏目漱石 『野分』

現代語化

「解脱と拘泥……憂世子」
「体のどこかが悪いと気になってしょうがない。何をしていても、そこにこだわりが出てくる。ところがすごく健康な人は、どんなときも自分の体の存在を忘れている。体の部分で注意を集中すべき問題がないから、苦がなく太っているんだ。やせて蒼ざめた顔をしている人に、胃が悪いでしょうって聞いてみたことがある。するとその人は、胃は全然悪くないし、その証拠に自分はこんな年になっても、いまだに胃がどこにあるかわからないって言った。その時は笑って済ませたけど、あとで考えてみるとすごく悟った言葉だった。この人は胃が健康だから胃にこだわる必要がない、必要がないから胃がどこにあってもいいんだろうね。好きなものを自由に食べて、自由に飲んでいる。この人は胃に関して悟りを開いたんだ。……」
「胃について言えることは、体全体についても言えることだ。体全体について言えることは、精神についても言えることだ。ただ精神生活では、いいことも悪いこともどちらもこだわらないわけにはいかなくて、体よりも大変になる。「得意なことが一つある人はそのことにこだわり、得意な技能を持っている人はそのことにこだわって、自分自身を苦しめている。芸事は気持ちを変えればすぐに忘れることもできる。自分の欠点に関しては、そう簡単には解脱できない。百円や二百円もする帯を締めて女性がコンサートに行くと、この帯が妙に気になって音楽が入ってこないことがある。これは帯にこだわってるからなんだ。でもこれは得意なことを自慢する例だ。得意なことはさっき言ったように苦しみから逃れやすい。でも恥ずかしいことはすごくしつこく苦しませる。昔、ある場所で一人のお客さんに紹介されたとき、お互い椅子に座って挨拶をして頭を下げ合った。頭を下げてる最中に、向こうの足を見るとその男性の靴下のかかと部分が破れて親指の爪が出ていた。こちらが頭を下げると同時に、彼はきれいな方の足を上げて、破れた靴下の上に置いた。この人は靴下の穴にこだわってたんだ。……」
「こだわりは苦痛だ。避けなきゃいけない。苦痛そのものはこの世では避けられないだろう。でもこだわりの苦痛は、1日で終わる苦痛を5日間、7日間も引き伸ばす苦痛だ。必要のない苦痛だ。避けなきゃいけない。「自分がこだわるのは、他人が自分に注目してると思うからで、つまるところは他人がこだわってるからだ。……」
「だからこだわりを解脱するには2つの方法がある。他人がどんなにこだわっても自分はこだわらないのが一つの解脱法だ。人がじっと見つめても、耳を澄ませても、冷たく批評しても悪口を言っても、自分だけはこだわらずにサッサと行動する。大久保彦左衛門は洗面器を持って登城したことがある。……」
「立派な衣装を召使に着せると、召使はすぐにこだわるようになる。華族や大名はそういう点では解脱できてたんだ。華族や大名に召使の腹掛けをさせると、すぐにこだわるようになる。釈迦や孔子はこの点で解脱を心得てた。物質的なことに重きを置かない人は、物質的なことにこだわる必要がないから。……」
「2つ目の解脱法は普通の人向けの解脱法だ。普通の人向けの解脱法はこだわりから逃れることじゃなくて、こだわらなきゃいけないような苦しい立場に自分を置かないようにすることだ。世間の注目を浴びるような結果になって、自分自身に苦痛が跳ね返ってこないように最初から注意するんだ。だから最初から世間に媚びて世間の大勢に迎合する心構えがなければ成功しない。江戸風の町人はこの解脱法を心得てる。芸妓遊びをする客は、この解脱法を心得てる。西洋のいわゆる紳士は、もっともよくこの解脱法を心得たもんだ。……」

原文 (会話文抽出)

「解脱と拘泥……憂世子」
「身体の局部がどこぞ悪いと気にかかる。何をしていても、それがコダワって来る。ところが非常に健康な人は行住坐臥ともにわが身体の存在を忘れている。一点の局部だにわが注意を集注すべき患所がないから、かく安々と胖かなのである。瘠せて蒼い顔をしている人に、君は胃が悪いだろうと尋ねて見た事がある。するとその男が答えて、胃は少しも故障がない、その証拠には僕はこの年になるが、いまだに胃がどこにあるか知らないと云うた。その時は笑って済んだが、後で考えて見ると大に悟った言葉である。この人は全く胃が健康だから胃に拘泥する必要がない、必要がないから胃がどこにあっても構わないのと見える。自在飲、自在食、いっこう平気である。この男は胃において悟を開いたものである。……」
「胃について道い得べき事は、惣身についても道い得べき事である。惣身について道い得べき事は、精神についても道い得べき事である。ただ精神生活においては得失の両面において等しく拘泥を免かれぬところが、身体より煩いになる。「一能の士は一能に拘泥し、一芸の人は一芸に拘泥して己れを苦しめている。芸能は気の持ちようではすぐ忘れる事も出来る。わが欠点に至っては容易に解脱は出来ぬ。「百円や二百円もする帯をしめて女が音楽会へ行くとこの帯が妙に気になって音楽が耳に入らぬ事がある。これは帯に拘泥するからである。しかしこれは自慢の例じゃ。得意の方は前云う通り祟りを避け易い。しかし不面目の側はなかなか強情に祟る。昔しさる所で一人の客に紹介された時、御互に椅子の上で礼をして双方共頭を下げた。下げながら、向うの足を見るとその男の靴足袋の片々が破れて親指の爪が出ている。こちらが頭を下げると同時に彼は満足な足をあげて、破れ足袋の上に加えた。この人は足袋の穴に拘泥していたのである。……」
「拘泥は苦痛である。避けなければならぬ。苦痛そのものは避けがたい世であろう。しかし拘泥の苦痛は一日で済む苦痛を五日、七日に延長する苦痛である。いらざる苦痛である。避けなければならぬ。「自己が拘泥するのは他人が自己に注意を集注すると思うからで、つまりは他人が拘泥するからである。……」
「したがって拘泥を解脱するには二つの方法がある。他人がいくら拘泥しても自分は拘泥せぬのが一つの解脱法である。人が目を峙てても、耳を聳やかしても、冷評しても罵詈しても自分だけは拘泥せずにさっさと事を運んで行く。大久保彦左衛門は盥で登城した事がある。……」
「立派な衣装を馬士に着せると馬士はすぐ拘泥してしまう。華族や大名はこの点において解脱の方を得ている。華族や大名に馬士の腹掛をかけさすと、すぐ拘泥してしまう。釈迦や孔子はこの点において解脱を心得ている。物質界に重を置かぬものは物質界に拘泥する必要がないからである。……」
「第二の解脱法は常人の解脱法である。常人の解脱法は拘泥を免かるるのではない、拘泥せねばならぬような苦しい地位に身を置くのを避けるのである。人の視聴を惹くの結果、われより苦痛が反射せぬようにと始めから用心するのである。したがって始めより流俗に媚びて一世に附和する心底がなければ成功せぬ。江戸風な町人はこの解脱法を心得ている。芸妓通客はこの解脱法を心得ている。西洋のいわゆる紳士はもっともよくこの解脱法を心得たものである。……」


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