夏目漱石 『吾輩は猫である』 「それでその趣向と云うのは?」…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 夏目漱石 『吾輩は猫である』

現代語化

「それでその趣向というのは?」
「根っこが俳句の趣向なので、あまり長々しく、難しいのは良くないので、一幕物にしました」
「なるほど」
「まず舞台装置ですが、これも極めてシンプルなのがいい。舞台中央に大きな柳を一本植えてあります。それからその柳の幹から一本の枝を右の方へスッと伸ばして、その枝にカラスを1羽とまらせています」
「カラスがじっとしていれば良いのですが」
「ご心配なく、カラスの足を糸で枝に縛り付けておきます。で、その下に洗面器を出しまして、その中に美女が横向きになって手ぬぐいを使っているんです」
「それは少しデカダンですね。第一、誰がその女性を演じるのでしょうか?」
「それもすぐ見つかります。美術学校のモデルを雇えばいいんです」
「それは警察がうるさいでしょうね」
「でも、興行をしなければ構わないじゃないですか。そんなことをとやかく言っていたら、学校で人体デッサンなんてできなくなってしまいます」
「でも、あれは練習のためなので、ただ眺めているのと少し違いますよ」
「先生方がそんなことを言うようでは日本はまだダメです。絵画も演劇も同じ芸術なんです」
「まあ、議論はいいですが、それからどうするのですか?」
「すると、花道から俳人の高浜虚子がステッキを持って、白いちょうちん入りの帽子をかぶり、透綾の羽織に、薩摩飛白の尻切れ半ばの足袋を履いた姿で出てきます。着付けは陸軍の御用達みたいですが、俳人なのでなるべく悠然として腹の中では句案に余念のない様子でなければいけません。それで虚子が花道を通り終えていよいよ本舞台に上がった時、ふと句案中の視線をあげて正面を見ると、大きな柳があって、柳の陰で白い女性が湯を浴びている。はっと思って上を見ると、長い柳の枝にカラスが1羽とまって女性の湯浴みを見下ろしています。そこで虚子先生が大いに俳句の趣きを感じたと見せて、50秒ほどためらった末に『行水の女に惚れる烏かな』と大きな声で一句詠むのを合図に、拍子木を入れて幕を引く。――どうでしょうか、こういう趣向は。お気に召さないでしょうか。君は虚子になるほうが、宮になるよりよほどいいですよ」
「あまりにもあっけないようです。もう少し人間的な事件が欲しいようです」
「たったそれだけで俳劇はすごいものです。上田敏君の説によると、俳句の趣きだとか滑稽だとかいうものは消極的で亡国の音だそうですが、敏君だけあってうまいことを言いました。そんなつまらないものを作ってみなさい。それこそ上田君から笑われるだけです。第一、劇なのか茶番劇なのか何なのかあまりにも消極的で分かりません。失礼ですが、寒月君はやっぱり実験室でガラス玉を磨いていたほうがいい。俳劇なんか100作ったって200作ったって、亡国の音じゃ駄目です」
「そんなに消極的なものでしょうか。私はなかなか積極的なつもりですが」
「虚子がですね。虚子先生が『女に惚れる烏かな』とカラスを捕らえて女性に惚れさせたところが大いに積極的だと思います」
「これは新説ですね。ぜひ講釈を伺いたいものです」
「理学士として考えると、カラスが女性に惚れるというのは非合理的でしょう」
「ごもっともです」
「その非合理なことをあっさりと口にして少しも無理に聞こえません」
「そうでしょうか?」
「なぜ無理に聞こえないかというと、これは心理的に説明するとよく分かります。実際には、惚れるとか惚れないとかいうのは俳人その人の感情であり、カラスとは無関係関係のことです。ところが、カラスが惚れていると感じるのは、つまりカラスがどうのこうのと考えているわけではなく、結局は自分が惚れているのです。虚子自身が美しい女性の湯浴みを眺めてはっと思った瞬間、すでに惚れ込んでいたに違いありません。自分が惚れた目で、カラスが枝の上でじっと下を見つめているのを見たものだから、ははあ、あいつも同じように参っているなと勘違いをしたのです。勘違いには違いありませんが、そこが文学的でかつ積極的なところなんです。自分だけ感じたことを、遠慮なくカラスに当てはめて平気な顔をしているところなどは、かなり積極的ではありませんか。どうですか、先生」
「なるほど、ご名論ですね。虚子が聞いたら驚くでしょうね。説明だけは積極的ですが、実際にあの劇を上演したら、観客はきっと消極的になるよ。ね、東風君」
「へえ、どうも消極的すぎるように思います」
「どうですか、東風さん。最近は傑作はありませんか?」
「いえ、特別これといったものはありませんが、近日中に詩集を出そうと思って――幸い原稿を持参しましたので批評をお願いしましょう」

原文 (会話文抽出)

「それでその趣向と云うのは?」
「根が俳句趣味からくるのだから、あまり長たらしくって、毒悪なのはよくないと思って一幕物にしておいた」
「なるほど」
「まず道具立てから話すが、これも極簡単なのがいい。舞台の真中へ大きな柳を一本植え付けてね。それからその柳の幹から一本の枝を右の方へヌッと出させて、その枝へ烏を一羽とまらせる」
「烏がじっとしていればいいが」
「何わけは有りません、烏の足を糸で枝へ縛り付けておくんです。でその下へ行水盥を出しましてね。美人が横向きになって手拭を使っているんです」
「そいつは少しデカダンだね。第一誰がその女になるんだい」
「何これもすぐ出来ます。美術学校のモデルを雇ってくるんです」
「そりゃ警視庁がやかましく云いそうだな」
「だって興行さえしなければ構わんじゃありませんか。そんな事をとやかく云った日にゃ学校で裸体画の写生なんざ出来っこありません」
「しかしあれは稽古のためだから、ただ見ているのとは少し違うよ」
「先生方がそんな事を云った日には日本もまだ駄目です。絵画だって、演劇だって、おんなじ芸術です」
「まあ議論はいいが、それからどうするのだい」
「ところへ花道から俳人高浜虚子がステッキを持って、白い灯心入りの帽子を被って、透綾の羽織に、薩摩飛白の尻端折りの半靴と云うこしらえで出てくる。着付けは陸軍の御用達見たようだけれども俳人だからなるべく悠々として腹の中では句案に余念のない体であるかなくっちゃいけない。それで虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時、ふと句案の眼をあげて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている、はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生大に俳味に感動したと云う思い入れが五十秒ばかりあって、行水の女に惚れる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く。――どうだろう、こう云う趣向は。御気に入りませんかね。君御宮になるより虚子になる方がよほどいいぜ」
「あんまり、あっけないようだ。もう少し人情を加味した事件が欲しいようだ」
「たったそれだけで俳劇はすさまじいね。上田敏君の説によると俳味とか滑稽とか云うものは消極的で亡国の音だそうだが、敏君だけあってうまい事を云ったよ。そんなつまらない物をやって見給え。それこそ上田君から笑われるばかりだ。第一劇だか茶番だか何だかあまり消極的で分らないじゃないか。失礼だが寒月君はやはり実験室で珠を磨いてる方がいい。俳劇なんぞ百作ったって二百作ったって、亡国の音じゃ駄目だ」
「そんなに消極的でしょうか。私はなかなか積極的なつもりなんですが」
「虚子がですね。虚子先生が女に惚れる烏かなと烏を捕えて女に惚れさしたところが大に積極的だろうと思います」
「こりゃ新説だね。是非御講釈を伺がいましょう」
「理学士として考えて見ると烏が女に惚れるなどと云うのは不合理でしょう」
「ごもっとも」
「その不合理な事を無雑作に言い放って少しも無理に聞えません」
「そうかしら」
「なぜ無理に聞えないかと云うと、これは心理的に説明するとよく分ります。実を云うと惚れるとか惚れないとか云うのは俳人その人に存する感情で烏とは没交渉の沙汰であります。しかるところあの烏は惚れてるなと感じるのは、つまり烏がどうのこうのと云う訳じゃない、必竟自分が惚れているんでさあ。虚子自身が美しい女の行水しているところを見てはっと思う途端にずっと惚れ込んだに相違ないです。さあ自分が惚れた眼で烏が枝の上で動きもしないで下を見つめているのを見たものだから、ははあ、あいつも俺と同じく参ってるなと癇違いをしたのです。癇違いには相違ないですがそこが文学的でかつ積極的なところなんです。自分だけ感じた事を、断りもなく烏の上に拡張して知らん顔をしてすましているところなんぞは、よほど積極主義じゃありませんか。どうです先生」
「なるほど御名論だね、虚子に聞かしたら驚くに違いない。説明だけは積極だが、実際あの劇をやられた日には、見物人はたしかに消極になるよ。ねえ東風君」
「へえどうも消極過ぎるように思います」
「どうです、東風さん、近頃は傑作もありませんか」
「いえ、別段これと云って御目にかけるほどのものも出来ませんが、近日詩集を出して見ようと思いまして――稿本を幸い持って参りましたから御批評を願いましょう」


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