夏目漱石 『吾輩は猫である』 「昔は亭主に口返答なんかした女は、一人もな…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 夏目漱石 『吾輩は猫である』

現代語化

「昔は夫に口答えする女は一人もいなかったんだって言うけど、それじゃ唖を女房にしてるようなもんで、僕は全然ありがたくない。やっぱり奥さんのように『あなたは重いじゃありませんか』とか何とか言われて見たいね。同じ女房を持つくらいなら、たまに喧嘩の一つや二つしなくっちゃ退屈でしようがないからな。僕の母なんか、父親の前では文句ばかり言ってたものだ。それで20年も一緒にいるうちに、お寺参り以外に外出したことがないって言うんだから情けないじゃないか。でも、おかげで先祖代々の戒名は全部暗記してるけど。男女間の付き合いだってそうさ。僕の子供の頃には、寒月君みたいに好きな人と合奏したり、心を通わせたり、ぼうっとして逢ったりなんてことは絶対できなかった」
「お気の毒様です」
「本当に気の毒だよ。しかもその頃の女が今の女より品行がいいとは限らないからね。奥さん、最近は女学生が堕落したの何のって騒がれてますが、昔はもっとひどかったんですよ」
「そうなんですか?」
「そうですとも。証拠があるから仕方がないんです。苦沙弥君、君も覚えてると思うけど僕らが5、6歳の頃までは、女の子をカボチャみたいに籠に入れて天秤棒で担いで売ってたもんだ、ねえ君」
「僕はそんなこと覚えてない」
「君の地元じゃどうだか知らないけど、静岡じゃ確かにそうだった」
「まさか」
「本当ですか?」
「本当さ。実際に父さんが値段を付けたことあるんだ。その時僕は確か6歳くらいだったと思う。父さんと一緒に油町から通町に散歩に出ると、向うから大きな声で『女の子はよしーかな!』って売り歩いてる。僕たちがちょうど2丁目の角に来ると、『伊勢源』っていう呉服屋の前でその男にばったり会った。『伊勢源』っていうのは間口が10間で蔵が5つある、静岡で一番の呉服屋だ。今度行ったら見に来てください。今でもそっくり残ってます。立派な店だ。その番頭が甚兵衛って言うんだけど、いつも『3日前にお袋が亡くなった』みたいな顔をして帳場のところに控えてるんだ。甚兵衛君の隣りに初さんっていう24、5歳の働き手が座ってるんだけど、この初さんがまた雲照律師に帰依して37日間お蕎麦湯だけで過ごしたっていうくらい青白い顔をしてるんだ。初さんの隣りが長どんっていうんだけど、こっちは昨日火事で家を焼かれたみたいに変な顔をしてそろばんに寄りかかってる。長どんの隣が……」
「呉服屋の話をするのか、人売りの話をするのか?」
「そうそう、人売りの話をしてたんだっけ。実はこの『伊勢源』についてもすごく面白い話があるんだけど、今日は割愛して人売りだけにしておこう」
「人売りもついでにやめてくれ」
「どうして?これが20世紀の今と明治の初めの頃の女の子の品性の違いについてすごく参考になる材料だから、そんなに簡単にやめられるわけない――それで僕たちがお父さんと『伊勢源』の前まで来ると、さっきの人売りが父さんを見て『旦那さん、女の子が残ってますよ。安く売りますから買ってください』と言いながら天秤棒を下ろして汗を拭いてるんだ。見ると籠の中に前に一人、後ろに一人、どちらも2歳くらいの女の子が入ってる。父さんはこの男に『安ければ買ってもいいけど、もうこれきりかい?』って聞くと、『はい、今日はみんな売り尽くしてもう2人しかいません。どちらでもお好きな方をどうぞ』って女の子を両手で持ってカボチャみたいにお父さんの目の前に出すと、父さんはぽんぽんと頭を叩いて『おお、なかなかいい音だな』って言うんだ。それからいよいよ値段交渉が始まってさんざん言い合った末、父さんが『買ってもいいけど、品物は確かだろうな』って聞くと、『前の女の子はいつも見てるから間違いないですが、後ろに担いでるのは、なにしろ目がありませんから、もしかすると少し傷があるかもしれません。でも、こっちのほうが安いのでどうですか』って言ったんだ。僕はこのやり取りを今でも覚えてるんだけど、その時の子供心で『女って油断できないものだな』と思ったよ。――でも、明治38年の今ではこんなばかみたいな真似をして女の子を売ってる奴もいないし、目を隠して後ろに担いでるのは怖いとかそういう話も聞かないようだ。だから、僕の考えでは、やはり西洋文明のおかげで女の子の品行もずいぶん進歩してるんだろうと断定するんだけど、どうだろう寒月君」

原文 (会話文抽出)

「昔は亭主に口返答なんかした女は、一人もなかったんだって云うが、それなら唖を女房にしていると同じ事で僕などは一向ありがたくない。やっぱり奥さんのようにあなたは重いじゃありませんかとか何とか云われて見たいね。同じ女房を持つくらいなら、たまには喧嘩の一つ二つしなくっちゃ退屈でしようがないからな。僕の母などと来たら、おやじの前へ出てはいとへいで持ち切っていたものだ。そうして二十年もいっしょになっているうちに寺参りよりほかに外へ出た事がないと云うんだから情けないじゃないか。もっとも御蔭で先祖代々の戒名はことごとく暗記している。男女間の交際だってそうさ、僕の小供の時分などは寒月君のように意中の人と合奏をしたり、霊の交換をやって朦朧体で出合って見たりする事はとうてい出来なかった」
「御気の毒様で」
「実に御気の毒さ。しかもその時分の女が必ずしも今の女より品行がいいと限らんからね。奥さん近頃は女学生が堕落したの何だのとやかましく云いますがね。なに昔はこれより烈しかったんですよ」
「そうでしょうか」
「そうですとも、出鱈目じゃない、ちゃんと証拠があるから仕方がありませんや。苦沙弥君、君も覚えているかも知れんが僕等の五六歳の時までは女の子を唐茄子のように籠へ入れて天秤棒で担いで売ってあるいたもんだ、ねえ君」
「僕はそんな事は覚えておらん」
「君の国じゃどうだか知らないが、静岡じゃたしかにそうだった」
「まさか」
「本当ですか」
「本当さ。現に僕のおやじが価を付けた事がある。その時僕は何でも六つくらいだったろう。おやじといっしょに油町から通町へ散歩に出ると、向うから大きな声をして女の子はよしかな、女の子はよしかなと怒鳴ってくる。僕等がちょうど二丁目の角へ来ると、伊勢源と云う呉服屋の前でその男に出っ食わした。伊勢源と云うのは間口が十間で蔵が五つ戸前あって静岡第一の呉服屋だ。今度行ったら見て来給え。今でも歴然と残っている。立派なうちだ。その番頭が甚兵衛と云ってね。いつでも御袋が三日前に亡くなりましたと云うような顔をして帳場の所へ控えている。甚兵衛君の隣りには初さんという二十四五の若い衆が坐っているが、この初さんがまた雲照律師に帰依して三七二十一日の間蕎麦湯だけで通したと云うような青い顔をしている。初さんの隣りが長どんでこれは昨日火事で焚き出されたかのごとく愁然と算盤に身を凭している。長どんと併んで……」
「君は呉服屋の話をするのか、人売りの話をするのか」
「そうそう人売りの話しをやっていたんだっけ。実はこの伊勢源についてもすこぶる奇譚があるんだが、それは割愛して今日は人売りだけにしておこう」
「人売りもついでにやめるがいい」
「どうしてこれが二十世紀の今日と明治初年頃の女子の品性の比較について大なる参考になる材料だから、そんなに容易くやめられるものか――それで僕がおやじと伊勢源の前までくると、例の人売りがおやじを見て旦那女の子の仕舞物はどうです、安く負けておくから買っておくんなさいと云いながら天秤棒をおろして汗を拭いているのさ。見ると籠の中には前に一人後ろに一人両方とも二歳ばかりの女の子が入れてある。おやじはこの男に向って安ければ買ってもいいが、もうこれぎりかいと聞くと、へえ生憎今日はみんな売り尽してたった二つになっちまいました。どっちでも好いから取っとくんなさいなと女の子を両手で持って唐茄子か何ぞのようにおやじの鼻の先へ出すと、おやじはぽんぽんと頭を叩いて見て、ははあかなりな音だと云った。それからいよいよ談判が始まって散々価切った末おやじが、買っても好いが品はたしかだろうなと聞くと、ええ前の奴は始終見ているから間違はありませんがね後ろに担いでる方は、何しろ眼がないんですから、ことによるとひびが入ってるかも知れません。こいつの方なら受け合えない代りに価段を引いておきますと云った。僕はこの問答を未だに記憶しているんだがその時小供心に女と云うものはなるほど油断のならないものだと思ったよ。――しかし明治三十八年の今日こんな馬鹿な真似をして女の子を売ってあるくものもなし、眼を放して後ろへ担いだ方は険呑だなどと云う事も聞かないようだ。だから、僕の考ではやはり泰西文明の御蔭で女の品行もよほど進歩したものだろうと断定するのだが、どうだろう寒月君」


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