GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。
青空文庫図書カード: 夏目漱石 『吾輩は猫である』
現代語化
「例の松って、何?」
「首吊り松だよ」
「首吊り松って鴻の台のじゃないの?」
「鴻の台ののは鐘懸りの松で、土手三番町のは首吊り松だよ。なぜそんな名前が付いたかっていうと、昔から言い伝えられていて、誰でもこの松の下に来ると首を吊りたくなるんだって。土手の上には松の木が何十本もあるんだけど、首吊りって言ったら必ずこの松に吊るさげてんの。年に2、3回は必ず吊るさげてる。他の松ではどうしても死ぬ気になれないんだよね。見ると、いい具合に枝がこっちの方へ伸びてる。『ああ、いい枝ぶりだ。このままにしておくのはもったいない。どうかしてあそこに人間を吊るしてみたいな。誰か来ないかな』って、あたりを見渡すと誰一人いない。しょうがないから、自分で吊るそうか。いやいや、自分が吊るしたら命が危ない、危ないからやめとこう。でも、昔のギリシャ人は宴会の席で首吊りの真似をして余興にしてたっていう話があるんだ。一人が台の上に乗ってロープの輪っか首に入れると、他の人が台を蹴落とす。首入れた人は台を引かれると同時にロープ緩めて飛び降りるっていう趣向なんだって。それが本当なら別に怖がることもない、僕もちょっと試してみようと思って枝に手をかけると、いい具合に揺れる。揺れ方がすごく美しいんだ。首が吊るされてふわふわしてるのを想像すると嬉しくなってしょうがない。絶対やろうと思ったんだけど、東風が来て待ってるんだったら可哀想だなって考えるようになった。『それじゃあまず東風に会って約束通り話をして、それから出直そう』って気持ちになって結局家に帰ったのさ」
「それで市が栄えたのかい?」
「面白いね」
「家に帰ってみると東風は来てない。でも今日はどうしても外せない用があって出られない、いずれ日を改めてお伺いしますって葉書があったので、やっと安心した。『これなら心置きなく首が吊れる』と思って嬉しくなった。ですぐ下駄を履いて、急いで元の場所に戻って見る……」
「見るとどうしたんだい?」
「いよいよ面白いところになりますね」
「見ると、もう誰かが来て先に吊るさってる。たった一歩の差でさ。残念だったよ。考えてみるとあの時は死神にとりつかれてたんだね。ジェームズとかいう人が言うには、潜在意識の世界と現実世界が因果関係で相互に作用したんだろうって。本当に不思議なことがあるもんだよ」
原文 (会話文抽出)
「たしか暮の二十七日と記憶しているがね。例の東風から参堂の上是非文芸上の御高話を伺いたいから御在宿を願うと云う先き触れがあったので、朝から心待ちに待っていると先生なかなか来ないやね。昼飯を食ってストーブの前でバリー・ペーンの滑稽物を読んでいるところへ静岡の母から手紙が来たから見ると、年寄だけにいつまでも僕を小供のように思ってね。寒中は夜間外出をするなとか、冷水浴もいいがストーブを焚いて室を煖かにしてやらないと風邪を引くとかいろいろの注意があるのさ。なるほど親はありがたいものだ、他人ではとてもこうはいかないと、呑気な僕もその時だけは大に感動した。それにつけても、こんなにのらくらしていては勿体ない。何か大著述でもして家名を揚げなくてはならん。母の生きているうちに天下をして明治の文壇に迷亭先生あるを知らしめたいと云う気になった。それからなお読んで行くと御前なんぞは実に仕合せ者だ。露西亜と戦争が始まって若い人達は大変な辛苦をして御国のために働らいているのに節季師走でもお正月のように気楽に遊んでいると書いてある。――僕はこれでも母の思ってるように遊んじゃいないやね――そのあとへ以て来て、僕の小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものの名前が列挙してあるのさ。その名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気なくなって人間もつまらないと云う気が起ったよ。一番仕舞にね。私しも取る年に候えば初春の御雑煮を祝い候も今度限りかと……何だか心細い事が書いてあるんで、なおのこと気がくさくさしてしまって早く東風が来れば好いと思ったが、先生どうしても来ない。そのうちとうとう晩飯になったから、母へ返事でも書こうと思ってちょいと十二三行かいた。母の手紙は六尺以上もあるのだが僕にはとてもそんな芸は出来んから、いつでも十行内外で御免蒙る事に極めてあるのさ。すると一日動かずにおったものだから、胃の具合が妙で苦しい。東風が来たら待たせておけと云う気になって、郵便を入れながら散歩に出掛けたと思い給え。いつになく富士見町の方へは足が向かないで土手三番町の方へ我れ知らず出てしまった。ちょうどその晩は少し曇って、から風が御濠の向うから吹き付ける、非常に寒い。神楽坂の方から汽車がヒューと鳴って土手下を通り過ぎる。大変淋しい感じがする。暮、戦死、老衰、無常迅速などと云う奴が頭の中をぐるぐる馳け廻る。よく人が首を縊ると云うがこんな時にふと誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思い出す。ちょいと首を上げて土手の上を見ると、いつの間にか例の松の真下に来ているのさ」
「例の松た、何だい」
「首懸の松さ」
「首懸の松は鴻の台でしょう」
「鴻の台のは鐘懸の松で、土手三番町のは首懸の松さ。なぜこう云う名が付いたかと云うと、昔しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊りたくなる。土手の上に松は何十本となくあるが、そら首縊りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。年に二三返はきっとぶら下がっている。どうしても他の松では死ぬ気にならん。見ると、うまい具合に枝が往来の方へ横に出ている。ああ好い枝振りだ。あのままにしておくのは惜しいものだ。どうかしてあすこの所へ人間を下げて見たい、誰か来ないかしらと、四辺を見渡すと生憎誰も来ない。仕方がない、自分で下がろうか知らん。いやいや自分が下がっては命がない、危ないからよそう。しかし昔の希臘人は宴会の席で首縊りの真似をして余興を添えたと云う話しがある。一人が台の上へ登って縄の結び目へ首を入れる途端に他のものが台を蹴返す。首を入れた当人は台を引かれると同時に縄をゆるめて飛び下りるという趣向である。果してそれが事実なら別段恐るるにも及ばん、僕も一つ試みようと枝へ手を懸けて見ると好い具合に撓る。撓り按排が実に美的である。首がかかってふわふわするところを想像して見ると嬉しくてたまらん。是非やる事にしようと思ったが、もし東風が来て待っていると気の毒だと考え出した。それではまず東風に逢って約束通り話しをして、それから出直そうと云う気になってついにうちへ帰ったのさ」
「それで市が栄えたのかい」
「面白いですな」
「うちへ帰って見ると東風は来ていない。しかし今日は無拠処差支えがあって出られぬ、いずれ永日御面晤を期すという端書があったので、やっと安心して、これなら心置きなく首が縊れる嬉しいと思った。で早速下駄を引き懸けて、急ぎ足で元の所へ引き返して見る……」
「見るとどうしたんだい」
「いよいよ佳境に入りますね」
「見ると、もう誰か来て先へぶら下がっている。たった一足違いでねえ君、残念な事をしたよ。考えると何でもその時は死神に取り着かれたんだね。ゼームスなどに云わせると副意識下の幽冥界と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に感応したんだろう。実に不思議な事があるものじゃないか」