夏目漱石 『草枕』 「情けの風が女から吹く。声から、眼から、肌…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 夏目漱石 『草枕』

現代語化

「女から優しい風が吹く。声から、目から、肌から吹く。男に支えられて船の舳先に行く女は、夕暮れのヴェニスを見てるのか、支える男は俺の脈に稲妻の血を走らせるのか。――情がないから、適当ですよ。ところどころ抜けるかもしれません」
「結構ですよ。都合次第で、付け足しても構いません」
「女は男の隣で船べりに寄りかかる。二人の距離は、風に揺れるリボンの幅より狭い。女は男と一緒にヴェニスに行きたいと言う。ヴェニスにある総督の宮殿は今二度目の日没のように、薄赤く消えていく」
「ドージェって誰ですか?」
「誰でもいいですよ。昔ヴェニスを支配してた人の名前ですよ。何代も続いたんですよね。その宮殿が今でもヴェニスに残ってるんです」
「その男と女は誰のことなんでしょう」
「誰だか、俺にもわかんないんです。だから面白いんですよ。今までの関係なんてどうでもいいんですよ。ただあなたと俺みたいに、こう一緒にいるところなんで、その場限りで面白みがあるでしょう」
「そんなものですかね。なんか船の中みたいですね」
「船でも陸でも、書いてある通りで構いません。なんでって聞き出すと探偵になってしまうんですよ」
「ハハハ。じゃ聞きませんよ」
「普通の小説は全部探偵が発明したものですよ。情がないところがないから、ちっとも面白くない」
「じゃ情がないの続きを聞かせてよ。それから?」
「ヴェニスは沈んでいく、沈んでいく、ただ空に引く薄い線になる。線は切れる。切れて点になる。乳白色の空の中に丸い塔が、あちこちに立つ。ついに一番高くそびえた鐘楼が沈む。沈んだと女が言う。ヴェニスから離れる女の心は空を飛ぶ風のように自由だ。だけどヴェニスに隠されたものが、また戻らなきゃいけない女の心に苦しみを与える。男と女は暗い海の方を見る。星はどんどん増えていく。柔らかく揺れる海は泡を弾けない。男は女の手を取る。鳴りやまない弦を握った気分だ」
「あんまり情がない感じもしないですね」
「それがこれが情がないように聞こえるんですよ。でも嫌ならちょっと省略しましょうか」
「私は大丈夫ですよ」
「俺も、あなたよりもっと大丈夫ですよ。――それから、と、うんと、ちょっと難しくなってきたな。どうも訳し――いや読みづらい」
「読みづらいなら、省略してください」
「ええ、適当にやりましょう。――この一夜と女が言う。一夜?と男が聞く。一夜だけってのは冷たいな、何晩も重ねるのがいいと言う」
「女が言うんですか、男が言うんですか?」
「男が言うんですよ。女はヴェニスへ帰りたくないんでしょう。それで男が慰める言葉なんです。――真夜中の甲板に帆綱を枕にして横になってた男の記憶には、あの瞬間、熱い一滴の血みたいな瞬間、女の手を確かに握った瞬間が大きな波のように揺れる。男は暗い夜を見ながら、強制された結婚から、女を絶対救い出そうと決心する。そう決めて男は目を閉じる。――」
「女は?」
「女は迷ってるけど、どこで迷ってるかわかってないみたい。さらわれて空を飛んでる人のように、ただ不思議なことばかり――その続きがちょっと読みづらいんですよ。どうも文章にならない。――ただ不思議なことばかり――なんか動詞がないでしょうか」
「動詞なんていらないですよ、それで十分です」
「え?」

原文 (会話文抽出)

「情けの風が女から吹く。声から、眼から、肌から吹く。男に扶けられて舳に行く女は、夕暮のヴェニスを眺むるためか、扶くる男はわが脈に稲妻の血を走らすためか。――非人情だから、いい加減ですよ。ところどころ脱けるかも知れません」
「よござんすとも。御都合次第で、御足しなすっても構いません」
「女は男とならんで舷に倚る。二人の隔りは、風に吹かるるリボンの幅よりも狭い。女は男と共にヴェニスに去らばと云う。ヴェニスなるドウジの殿楼は今第二の日没のごとく、薄赤く消えて行く。……」
「ドージとは何です」
「何だって構やしません。昔しヴェニスを支配した人間の名ですよ。何代つづいたものですかね。その御殿が今でもヴェニスに残ってるんです」
「それでその男と女と云うのは誰の事なんでしょう」
「誰だか、わたしにも分らないんだ。それだから面白いのですよ。今までの関係なんかどうでもいいでさあ。ただあなたとわたしのように、こういっしょにいるところなんで、その場限りで面白味があるでしょう」
「そんなものですかね。何だか船の中のようですね」
「船でも岡でも、かいてある通りでいいんです。なぜと聞き出すと探偵になってしまうです」
「ホホホホじゃ聴きますまい」
「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも趣がない」
「じゃ非人情の続きを伺いましょう。それから?」
「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹の淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石の空のなかに円き柱が、ここ、かしこと立つ。ついには最も高く聳えたる鐘楼が沈む。沈んだと女が云う。ヴェニスを去る女の心は空行く風のごとく自由である。されど隠れたるヴェニスは、再び帰らねばならぬ女の心に覊絏の苦しみを与う。男と女は暗き湾の方に眼を注ぐ。星は次第に増す。柔らかに揺ぐ海は泡を濺がず。男は女の手を把る。鳴りやまぬ弦を握った心地である。……」
「あんまり非人情でもないようですね」
「なにこれが非人情的に聞けるのですよ。しかし厭なら少々略しましょうか」
「なに私は大丈夫ですよ」
「わたしは、あなたよりなお大丈夫です。――それからと、ええと、少しく六ずかしくなって来たな。どうも訳し――いや読みにくい」
「読みにくければ、御略しなさい」
「ええ、いい加減にやりましょう。――この一夜と女が云う。一夜? と男がきく。一と限るはつれなし、幾夜を重ねてこそと云う」
「女が云うんですか、男が云うんですか」
「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰める語なんです。――真夜中の甲板に帆綱を枕にして横わりたる、男の記憶には、かの瞬時、熱き一滴の血に似たる瞬時、女の手を確と把りたる瞬時が大濤のごとくに揺れる。男は黒き夜を見上げながら、強いられたる結婚の淵より、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼を閉ずる。――」
「女は?」
「女は路に迷いながら、いずこに迷えるかを知らぬ様である。攫われて空行く人のごとく、ただ不可思議の千万無量――あとがちょっと読みにくいですよ。どうも句にならない。――ただ不可思議の千万無量――何か動詞はないでしょうか」
「動詞なんぞいるものですか、それで沢山です」
「え?」


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