夏目漱石 『虞美人草』 「みんな欲しそうだね」…

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青空文庫図書カード: 夏目漱石 『虞美人草』

現代語化

「みんな欲しそうにしてんな」
「みんな新しい装丁してるよね」
「表紙だけよさげにして、中身に保険かけたつもりかな」
「あんたらと違って文学書だから」
「文学書だから上っ面をきれいにする必要があるのか?それじゃ文学者だから金縁メガネかける必要があるんかい」
「ちょっと厳しいですね。でも、ある意味では、文学者もある程度美術品みたいなもんでしょう」
「美術品なのはいいけど、金縁メガネだけで保険かけてるんじゃ情けないよな」
「どうもメガネが良くないみたいですね。――宗近君って近視じゃないんですか?」
「勉強しないから、なりたくてもなれない」
「遠視でもないんですか?」
「冗談言わないでください。――さあそろそろ歩こうぜ」
「おい、鵜って鳥知ってんのか?」
「はい。鵜はどうしたんですか?」
「あいつら魚をせっかく飲み込んだと思ったら吐いちゃうんだよな。つまんねーよな」
「つまんないけど、魚は漁師の魚籠に入るからいいじゃないですか」
「だから皮肉なんだよ。せっかく本読んだと思ったらすぐゴミ箱に入れる。学者って奴らは本を吐いてばっかりでさ。自分の栄養にならない。得するのはゴミ箱だけなんだよ」
「そう言われると学者もかわいそうですね。どうしたらいいか分かんなくなっちゃう」
「行動しろよ。本ばかり読んで何も行動しないのは、皿に盛った牡丹餅を絵に描いた牡丹餅と間違えておとなしく眺めてるのと同じだ。特に文学者って奴はきれいなことを言う割に、きれいなことをしないもんだ。どうだい小野さん、西洋の詩人とかによくそんな奴いんじゃん?」
「そうですね」
「例えば」
「名前は忘れちゃったけど、女を騙したり、女房を捨てたりした奴がいたっけ」
「そんな奴いないでしょ」
「いや、いるよ。絶対いる」
「そうかな。俺もよく覚えてないけど……」
「専門家が覚えてなきゃ困るよ。――それはそうと昨日の女ね」
「あれは俺よく知ってるよ」
「蔦屋の裏にいたでしょ」
「琴弾いてた」
「なかなか上手かったでしょ」
「上手かったと思うよ。なんか眠くなったから」
「ハハハハ、それこそ皮肉だなぁ」
「冷やかさないでくださいよ。真面目な話です。恩師の娘さんをふざけてる場合じゃない」
「でも眠くなっちゃダメだよ」
「眠くなるのがいいんだよ。人間でもそうさ。眠くなるような人間ってのはどこか尊いところがある」
「古臭くて尊いってことですか?」
「お前みたいな新人類は絶対に眠くならないよな」
「だから尊くない?」
「それだけじゃない。尊い人間を時代遅れだとかってバカにするんだろ」
「今日はなんだか攻撃ばっかりですね。そろそろ別れましょうか」
「いや、もう少し付き合うよ。どうせ暇なんだから」
「あなたって毎日暇なんですね」
「俺か?本はあんまり読まないけどね」
「それ以外にも、あまり忙しそうには見えませんよ」
「忙しがる必要を認めてないからさ」
「結構です」
「結構にできるうちはしといたほうがいいよ。いざという時に困るから」
「その時その時でなんとかなるでしょ。本当に結構です」
「お前、相変わらず甲野に行くのかい?」
「今、行って来たところです」
「甲野行ったり、恩師を案内したり、忙しいだろう」
「甲野の方は4、5日休みました」
「論文は?」
「ハハハハ、いつのことやら」
「急いで出したほうがいいぞ。いつのことやらのために忙しくしてる意味がない」
「まあ、その時になったらやりますよ」
「ところで、例の恩師の娘さんだけど」
「はい」
「あの子に関して、すごく面白い話があるんだけどさ」

原文 (会話文抽出)

「みんな欲しそうだね」
「みんな新式な装釘だ。どうも」
「表紙だけ奇麗にして、内容の保険をつけた気なのかな」
「あなた方のほうと違って文学書だから」
「文学書だから上部を奇麗にする必要があるのかね。それじゃ文学者だから金縁の眼鏡を掛ける必要が起るんだね」
「どうも、きびしい。しかしある意味で云えば、文学者も多少美術品でしょう」
「美術品で結構だが、金縁眼鏡だけで保険をつけてるのは情ない」
「とかく眼鏡が祟るようだ。――宗近君は近視眼じゃないんですか」
「勉強しないから、なりたくてもなれない」
「遠視眼でもないんですか」
「冗談を云っちゃいけない。――さあ好加減に歩こう」
「君、鵜と云う鳥を知ってるだろう」
「ええ。鵜がどうかしたんですか」
「あの鳥は魚をせっかく呑んだと思うと吐いてしまう。つまらない」
「つまらない。しかし魚は漁夫の魚籃の中に這入るから、いいじゃないですか」
「だからアイロニーさ。せっかく本を読むかと思うとすぐ屑籠のなかへ入れてしまう。学者と云うものは本を吐いて暮している。なんにも自分の滋養にゃならない。得の行くのは屑籠ばかりだ」
「そう云われると学者も気の毒だ。何をしたら好いか分らなくなる」
「行為さ。本を読むばかりで何にも出来ないのは、皿に盛った牡丹餅を画にかいた牡丹餅と間違えておとなしく眺めているのと同様だ。ことに文学者なんてものは奇麗な事を吐く割に、奇麗な事をしないものだ。どうだい小野さん、西洋の詩人なんかによくそんなのがあるようじゃないか」
「さよう」
「例えば」
「名前なんか忘れたが、何でも女をごまかしたり、女房をうっちゃったりしたのがいるぜ」
「そんなのはいないでしょう」
「なにいる、たしかにいる」
「そうかな。僕もよく覚えていないが……」
「専門家が覚えていなくっちゃ困る。――そりゃそうと昨夜の女ね」
「あれは僕よく知ってるぜ」
「蔦屋の裏にいたでしょう」
「琴を弾いていた」
「なかなか旨いでしょう」
「旨いんだろう、何となく眠気を催したから」
「ハハハハそれこそアイロニーだ」
「冷やかすんじゃない。真面目なところだ。かりそめにも君の恩師の令嬢を馬鹿にしちゃ済まない」
「しかし眠気を催しちゃ困りますね」
「眠気を催おすところが好いんだ。人間でもそうだ。眠気を催おすような人間はどこか尊といところがある」
「古くって尊といんでしょう」
「君のような新式な男はどうしても眠くならない」
「だから尊とくない」
「ばかりじゃない。ことに依ると、尊とい人間を時候後れだなどとけなしたがる」
「今日は何だか攻撃ばかりされている。ここいらで御分れにしましょうか」
「いや、もう少し持ってやる。どうせ暇なんだから」
「君は毎日暇のようですね」
「僕か? 本はあんまり読まないね」
「ほかにだって、あまり忙がしい事がありそうには見えませんよ」
「そう忙がしがる必要を認めないからさ」
「結構です」
「結構に出来る間は結構にして置かんと、いざと云う時に困る」
「臨時応急の結構。いよいよ結構ですハハハハ」
「君、相変らず甲野へ行くかい」
「今行って来たんです」
「甲野へ行ったり、恩師を案内したり、忙がしいだろう」
「甲野の方は四五日休みました」
「論文は」
「ハハハハいつの事やら」
「急いで出すが好い。いつの事やらじゃせっかく忙がしがる甲斐がない」
「まあ臨時応急にやりましょう」
「時にあの恩師の令嬢はね」
「ええ」
「あの令嬢についてよっぽど面白い話があるがね」

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