島崎藤村 『夜明け前』 「青山君、篤胤先生の古史伝を伊那の有志が上…

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青空文庫図書カード: 島崎藤村 『夜明け前』

現代語化

「青山君、篤胤先生の『古史伝』を伊那の人たちが出版してるって聞いてますが、君も関わってるんですか」
「そうですよ。去年の8月に、ようやく1冊目を出しました」
「地方の出版としては、あれはすごい企画ですね。秋田(篤胤の生地)でさえやらないようなことを伊那の人たちが始めたと言って、鉄胤先生もすごく力を入れてましたよ。伊那の方は本当に熱心ですね。先生の話だと、毎年弟子が増えるそうですよ」
「ある村なんて、村中が平田の信者と言ってもいいくらいらしいですよ。でも、松沢義章っていう人が行商して小間物屋をやりながら道を伝えた時は、まだあの谷には『古学』ってのはなかったそうですよ」
「時代がそうなんでしょうね。本居、平田の学説は、正しいと思うか、反対するか、少なくとも今の時代に生きる人間は無関心ではいられないものですよね」
「暮田さんは、宮川寛斎っていう医者を知ってますか」
「美濃の国学者でしょう。名前はよく聞きますが、会ったことはありません」
「中津川の景蔵さん、香蔵さん、それに僕なんかは、3人とも昔の弟子ですよ。鉄胤先生に紹介してくれたのも宮川先生です。あの先生も今は伊那の方ですが、どうしてるんでしょう――」
「そういえば、青山君は鉄胤先生に1度しか会ってないんですよね。1回会った弟子でも、10年そばにいる弟子でも、あの鉄胤先生には同じみたいですよ。君の話もよく出ますよ」

原文 (会話文抽出)

「青山君、篤胤先生の古史伝を伊那の有志が上木しているように聞いていますが、君もあれには御関係ですかね。」
「そうですよ。去年の八月に、ようやく第一帙を出しましたよ。」
「地方の出版としては、あれは大事業ですね。秋田(篤胤の生地)でさえ企てないようなことを伊那の衆が発起してくれたと言って、鉄胤先生なぞもあれには身を入れておいででしたっけ。なにしろ、伊那の方はさかんですね。先生のお話じゃ、毎年門人がふえるというじゃありませんか。」
「ある村なぞは、全村平田の信奉者だと言ってもいいくらいでしょう。そのくせ、松沢義章という人が行商して歩いて、小間物類をあきないながら道を伝えた時分には、まだあの谷には古学というものはなかったそうですが。」
「機運やむべからずさ。本居、平田の学説というものは、それを正しいとするか、あるいは排斥するか、すくなくも今の時代に生きるもので無関心ではいられないものですからねえ。」
「暮田さんは、宮川寛斎という医者を御存じでしょうか。」
「美濃の国学者でしょう。名前はよく聞いていますが、ついあったことはありません。」
「中津川の景蔵さん、香蔵さん、それにわたしなぞは、三人とも旧い弟子ですよ。鉄胤先生に紹介してくだすったのも宮川先生です。あの先生も今じゃ伊那の方ですが、どうしておいででしょうか――」
「そう言えば、青山君は鉄胤先生に一度あったきりだそうですね。一度あったお弟子でも、十年そばにいるお弟子でも、あの鉄胤先生には同じようだ。君の話もよく出ますよ。」


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