三遊亭圓朝 『名人長二』 「そういうと豪気に宅で奢ってるようだが、水…

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青空文庫図書カード: 三遊亭圓朝 『名人長二』

現代語化

「そうは言っても、家で貧乏くさい婆さんが作った惣菜よりはおいしいだろう」
「それは決まってるよ。でも、湯治とかって言うと贅沢するもんだ」
「贅沢といえば雉の丸焼きとか、山鳩やヒヨドリは江戸じゃ食べられない。こないだのあれはうまかったろう」
「ああ、あれかい? あれはうまかったね。それにあの時食べた大根も、こっちの大根は甘味があってうまい。あと沢庵もいい。細くて小さくて、でも甘みがあるのは最高だ。自然薯も本場だよ。こんな話すると腹が減ってくるな」
「よく食べるやつだな。せっかく傷が治りかけたのに油っぽいもの食べると悪いよ」
「毒になるものは食べないけど、退屈だから食べることしか楽しみがないんだよね…蕎麦粉のいいのが手に入ったから打ってもらおうか?」
「俺は食べたくないけど、ちょっと付き合うよ」
「それはありがたい」
「こりゃ早い、いやいや相当な手間だったね…兄ちゃん、一杯やる?」
「俺は飲まないけど、おまえは一本飲みなよ」
「じゃ、婆さん、酒を一合つけてきてくれないか」
「はい、おつまみはどうします?」
「何かある?」
「鯛と卵の汁がありますけど」
「じゃあ鯛の塩焼きと卵の汁を二人前くれ」
「はい、すぐに持ってきますね」
「兼公、見慣れない婆さんだな」
「うちの婆さんより汚いみたいだな。あそこで打った蕎麦は醤油はいらないだろうな」
「なぜ?」
「だって鼻水で塩分たっぷりだから」
「汚ねえこと言うな」
「そんなに馬鹿にしたもんじゃないよ。結構うまい…兄ちゃん、食べてみなよ…お婆さん、お燗はできた?」
「だいぶお待たせしました。お酌しますか?」
「一杯頼もうかな…お婆さん、なかなかお酌が上手だね」
「上手になるわよ。若い頃からこの家で客相手にやってたんだから」
「でも、あなた今日初めてお見かけしましたよ?」
「そうだけどね、私は30歳のときからこの家で働いてて、6年前に近所に世帯を持ったんだけど、忙しいときはいつもお手伝いに来てたのよ。一昨日、おせゆッ娘さんが体調悪くなって城堀に帰っちゃったから、当分お手伝いに来たの」
「そうだったのか。ところで婆さん、おいくつですか?」
「もう58になります」
「兄ちゃん、田舎の人は元気だねえ」
「体が丈夫で欲が少ないから、苦労が少ないんだよ」
「おまえさんたちは江戸ですか?」
「そうだ」
「江戸から来ると不便なところでしょう?」
「不便だけど、湯が効くのには驚いたよ」
「そうですかねえ。おまえさんたちの病気はなんですか?」
「俺のはこれだよ。この親指を鑿で切ったんだ」
「えー怖いね。石鑿って重いでしょう?」
「俺は石屋じゃないよ」
「じゃあ何?」
「指物師だ」
「指物って…ああ、箱を作るんだね…不器用なんじゃない? 箱を作るぐらいで親指を鑿で貫通させちゃうなんて」
「兼公、一本参ったな。ははは」
「笑うけど、おまえのも同じ仲間なんじゃない?」
「俺のは違うよ。子供の頃の古傷だ」
「どうしたの?」
「どうしたのか自分でもわからない」
「それは変だね。自分の傷を本人が知らないなんて…やっぱり足?」
「いや、右の肩の下のあたり」
「背中? おまえさん何歳のとき?」
「それもわからないんだけど、この親指の入るくらいの穴がポカンと開いてて、暑さ寒さで痛むんだよね」
「へーそうなんですかねえ。子供のときにそんな傷ができたら死んでしまうでしょう? どうやって治ったんですか?」
「どうやって治ったどころか、自分から見えないからこんな傷があるのも知らなかったんだよ。9歳の夏だったかな。川に泳ぎに行くと、友達がおまえの背中に穴が開いてるって言って馬鹿にするから、初めて傷があるのを知ったのよ。それで家に帰って母親に、どうしてこんな穴が開いてるのか、友達が馬鹿にしていじめられるからなんとかしてくれって無理を言うと、母親が涙ぐんで、その傷の話をされると胸が痛くなるから言わないでくれ、ほかの人にその傷を見せるなと思って裸体で外に出したことがないのに、どうして泳ぎに行ったのかって言って泣くから、俺もそれっきりにしておいたから、結局わからないままずっと来ちゃったのよ」
「へえ…おまえさんの母親って江戸の人ですか?」
「なぜ?」
「ちょっと思い出すことがあってね」
「ふーん。俺の親は江戸の人じゃないけど、どこかの田舎だって俺も知らない。なんでも俺が5歳のときに田舎から出て、神田の三河町で荒物屋を始めたそうですぐ寛政9年の2月だったそうですが、そのときの火事で全焼して、その年の暮れに父親が亡くなったので、母親が貧乏の中で一生懸命に、俺が10歳になるまで育ててくれたから、仕事を覚えて母親に安心させようと思って、清兵衛親方って指物師の弟子になったんです」
「そうなのね。もしかしたら、おまえさんの母親はおさなさんじゃない?」
「ああ、そうですよ。おさなって言いました」
「父親は?」
「父親は長左衛門です」
「あれ、魂消た! おまえさん…長左衛門殿の拾った二助さんじゃないか」
「なんだって? 俺が拾い子だって? どうしておまえそんなことを…」
「知らないわけがないよ。この土地の捨て子なんだから」
「じゃあ俺は湯河原に捨てられたってことなのか?」
「そうだよ。この先の山をちょっと登ると、小滝が流れてるところがあるでしょう? あそこの葦の株の中に捨てられてたんだ。背中の傷が証拠だよ」
「これは変だ。どこに知ってる人がいるのかわからないのに」
「これは思いがけないことだ…じゃあ婆さん、おまえは俺の親父や母親を知ってるのか?」
「知ってるどころじゃないよ」
「そうして俺が捨てられた理由も?」
「もう根こそぎ知ってるよ」
「そうかい…じゃあちょっと待ってくれ」

原文 (会話文抽出)

「そういうと豪気に宅で奢ってるようだが、水洟をまぜてこせえた婆さんの惣菜よりア旨かろう」
「そりゃア知れた事だが、湯治とか何とか云やア贅沢が出るもんだ」
「贅沢と云やア雉子の打たてだの、山鳩や鵯は江戸じゃア喰えねえ、此間のア旨かったろう」
「ムヽあれか、ありゃア旨かった、それに彼の時喰った大根さ、此方の大根は甘味があって旨え、それに沢庵もおつだ、細くって小せえが、甘味のあるのは別だ、自然薯も本場だ、こんな話をすると何か喰いたくなって堪らねえ」
「よく喰いたがる男だ、折角疵が癒りかけたのに油濃い物を喰っちゃア悪いよ」
「毒になるものア喰やアしねいが、退屈だから喰う事より外ア楽みがねえ……蕎麦粉の良いのがあるから打ってもらおうか」
「己ア喰いたくねえが、少し相伴おうよ」
「そりゃア有難い」
「こりゃア早い、いや大きに御苦労……兄い一杯やるか」
「己ア飲まないが、手前一本やんない」
「そんなら婆さん、酒を一合つけて来てくんねえ」
「はい、下物はどうだね」
「何があるえ」
「鯛と鶏卵の汁があるがね」
「それじゃア鯛の塩焼に鶏卵の汁を二人前くんねえ」
「はい、直に持って来やす」
「兼公見なれねえ婆さんだなア」
「宅の婆さんよりア穢ねえようだ、あの婆さんの打った蕎麦だと醤汁はいらねいぜ」
「なぜ」
「だって水洟で塩気がたっぷりだから」
「穢ねいことをいうぜ」
「そんなに馬鹿にしたものじゃアねえ、中々旨え……兄い喰ってみねえ……おゝ婆さん、お燗が出来たか」
「大きに手間取りやした、お酌をしますかえ」
「一杯頼もうか……婆さんなか/\お酌が上手だね」
「上手にもなるだア、若い時から此家でお客の相手えしたからよ」
「だってお前今日初めて見かけたのだぜ」
「左様だがね、私イ三十の時から此家へ奉公して、六年前に近所へ世帯を持ったのだが、忙しねえ時ア斯うして毎度手伝に来るのさ、一昨日おせゆッ娘が塩梅がわりいって城堀へ帰ったから、当分手伝えに来たのさ」
「ムヽ左様かえ、そうして婆さんお前年は幾歳だえ」
「もうはア五十八になりやす」
「兄い、田舎の人は達者だねえ」
「どうしても体に骨を折って欲がねえから、苦労が寡いせいだ」
「お前さん方は江戸かえ」
「そうだ」
「江戸から来ちゃア不自由な処だってねえ」
「不自由だが湯の利くのには驚いたよ」
「左様かねえ、お前さん方の病気は何だね」
「己のア是だ、この拇指を鑿で打切ったのだ」
「へえー怖ねいこんだ、石鑿は重いてえからねえ」
「己ア石屋じゃアねえ」
「そんなら何だね」
「指物師よ」
「指物とア…ムヽ箱を拵えるのだね、…不器用なこんだ、箱を拵える位えで足い鑿い打貫すとア」
「兼公一本まいったなア、ハヽヽ」
「笑うけんど、お前さんのも矢張其の仲間かね」
「己のは左様じゃアねえ、子供の時分の旧疵だ」
「どうしたのだね」
「どうしたのか己も知らねえ」
「そりゃア変なこんだ、自分の疵を当人が知らねいとは……矢張足かね」
「いゝや、右の肩の下のところだ」
「背中かね……お前さん何歳の時だね」
「それも知らねいのだが、この拇指の入るくれえの穴がポカンと開いていて、暑さ寒さに痛んで困るのよ」
「へいー左様かねえ、孩児の時そんな疵うでかしちゃアおっ死んでしまうだねえ、どうして癒ったかねえ」
「どうして癒ったどころか、自分に見えねえから此様な疵のあるのも知らなかったのさ、九歳の夏のことだっけ、河へ泳ぎに行くと、友達が手前の背中にア穴が開いてると云って馬鹿にしやがったので、初めて疵のあるのを知ったのよ、それから宅へ帰ってお母に、何うして此様な穴があるのだ、友達が馬鹿にしていけねえから何うかしてくれろと無理をいうと、お母が涙ぐんでノ、その疵の事を云われると胸が痛くなるから云ってくれるな、他に其の疵を見せめえと思って裸体で外へ出したことのねえに、何故泳ぎに行ったのだと云って泣くから、己もそれっきりにしておいたから、到頭分らずじまいになってしまったのよ」
「はてね……お前さんの母様というは江戸者かねえ」
「何故だえ」
「些と思い出した事があるからねえ」
「フム、己の親は江戸者じゃアねえが、何処の田舎だか己ア知らねえ、何でも己が五歳の時田舎から出て、神田の三河町へ荒物店を出すと間もなく、寛政九年の二月だと聞いているが、其の時の火事に全焼になって、其の暮に父さんが死んだから、お母が貧乏の中で丹誠して、己が十歳になるまで育ってくれたから、職を覚えてお母に安心させようと思って、清兵衞親方という指物師の弟子になったのだ」
「左様かねえ、それじゃア若しかお前さんの母様はおさなさんと云わねいかねえ」
「あゝ左様だ、おさなと云ったよ」
「父様はえ」
「父さんは長左衛門さ」
「アレエ魂消たねえ、お前さん……長左衛門殿の拾児の二助どんけえ」
「何だと己が拾児だと、何ういうわけでお前そんな事を」
「知らなくってねえ、此の土地の棄児だものを」
「そんなら己は此の湯河原へ棄てられた者だというのかえ」
「そうさ、此の先の山を些と登ると、小滝の落ちてる処があるだ、其処の蘆ッ株の中へ棄てられていたのだ、背中の疵が証拠だアシ」
「これは妙だ、何処に知ってる者があるか分らねえものだなア」
「こりゃア思いがけねえ事だ……そんなら婆さんお前己の親父やお母を知ってるかね」
「知ってるどころじゃアねい」
「そうして己の棄てられたわけも」
「ハア根こそげ知ってるだア」
「左様かえ……そんなら少し待ってくんな」


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