最終内容更新01/ 8/13最終編集校正05/ 2/ 2

先駆性

 

>>戻る


小林一三翁 曰(いわ)く、
現状に安ずるものは落伍者になる。十里先を見て事を行うものは成功者になる




 阪急は2004年 8月、多機能ICカード切符を導入するが、その一つとして、1カ月単位で個人別の利用データを集計し、乗客の金融機関口座から運賃を引き落とす「ポストペイサービス」が世界で初めての実現された。

日本初
 日本初の電鉄会社開発の郊外住宅地池田室町を建設したのは阪急電鉄(当時、箕面有馬電気軌道)である。池田市広報紙「広報いけだ」'96/ 6号によると
「小林(一三)氏はその沿線に郊外住宅地の開発を考え、大阪方面に通勤する人達を自社の鉄道で運ぶという計画を立てた。そのため、創立当初から路線沿いの各地に約25万坪という膨大な土地を購入。その手初めが池田の2万7000坪で、路線開通3カ月後の明治43年(1910) 6月から分譲を始めた。
室町住宅は当初、「池田新市街地新築落成」と大きく見出しをつけたチラシが発行され、大いに宣伝された。売り出しのパンフレットによると、100坪を1邸宅(1区画)として、建坪20~30坪で2階建て。これを2500〜3000円で200戸販売する、と宣伝文句に乗せている。頭金50円、残金は10カ年で月々24円の月賦払いというユニークな商法(日本初の住宅ローン(NHK「その時歴史が動いた」2001. 1.24より))で「池田新市街地」の販売は大変好評であった。」
とのことである。

日本初
 阪急百貨店うめだ本店(開店時、阪神急行電鉄株式会社が運営)は日本初のターミナルデパートである。最上階の大食堂は百貨店の食堂として初めて食券制を採用した。(NHK「その時歴史が動いた」2001. 1.24より)

日本初
 阪急は、昭和40(1965)年甲陽園、箕面、西京極各駅(参考文献「阪急電鉄会社案内」『年譜』 http://www.hankyu.co.jp/hankyu/profile/history.htm )にフリーパスゲート(学生専用出口)を日本で初めて導入した。

日本初
 「電鉄」という名を初めて採用したのは阪急である〔大正 7(1918)年〕。

日本初
 阪急は昭和42年(1967) 3月、日本で初めての自動改札機を北千里に設置し、昭和58(1983)年には阪急全駅に普及させた。 [自動改札機開発物語]

日本初
 阪急は日本で初めて能勢電鉄とストアードフェアシステム「ラガールスルー」を共通化した〔平成 6(1994)年 4月〕。

日本初
 阪急はオリジナルメンバーとして日本初の複数鉄道会社共通ストアードフェアシステム“スルッとKANSAI"の中核となった〔平成 8(1996)年 3月〕。

日本初
 阪急は日本初のキセル防止システム“フェアライドシステム"を二段階に分けて導入した。フェアライドシステム< 1>を平成 6(1994)年 9月に、フェアライドシステム< 2>を平成 7(1995)年10月にである。

日本初
 阪急は日本で最初の企業広報誌である「もっとも有望なる電車」を発行した〔明治41(1908)年〕。( http://www.ikedabunko.or.jp/hankyu.html より2001. 5. 3確認)

日本初
 全鋼車(オールスチール・カー)を日本で初めて採用したのは阪急である。なお、全鋼車と木造車の中間である半鋼車は大正13(1924)年 8月に旧500形(後の300形)電動車(汽車製造会社製)、大正14(1925)年 4月に旧700形(後の310形)制御車(川崎造船所製)が導入されている。阪急は大正14(1925)年11月に川崎造船所に日本初の全鋼車510号制御車を試作させた。しかし、この車両は翌1926年に十三で接触事故をおこしてしまい破損してしまった。ここまで紹介した車両は木造車とほぼ同寸法の長さ14.88m、幅2.32mの小型車両である。そして、大正15年(1926)5月に製造された阪急600形と旧阪急800形(川崎造船所製)は長さ16.36m、幅2.65mの大型車で本車両が日本初の本格的な全鋼車となった。

日本初
 eていき( https://teikiyoyaku.hankyu.co.jp/index.html )はすくなくとも「パソコン端末から定期券購入の予約をした後、駅の新型自動券売機で運賃決済と発券を行う」方式としては日本初のインターネット定期券予約サービスである(2001/ 3/ 1 0:00amよりサービス開始)。(TOKK 2001/ 3/ 1, http://www.hankyu.co.jp/hankyu/news/191010202180627.html より)

日本初
 阪急は全駅を対象に運営管理業務を子会社(「阪急レールウェイサービス」)に移管する(2001/ 7より開始、2003/ 4完了予定)が(全駅員同子会社出向)、これは日本初の事である。see ///特急///阪急ニュースエクスプレス100号<3>

日本初といわれる
 宝塚新温泉の室内水泳場は日本初のものといわれる。
(NHK「その時歴史が動いた」2001. 1.24より)

一三翁発案といわれる
 大正初期、阪急は車内広告を他社に先駆け開始した。つり広告は一三翁発案といわれる。(NHK「その時歴史が動いた」2001. 1.24より)

国産第一号
 正雀車庫には国産第一号の車輪添削盤が設置されていた。なお、本装置は老朽化のため昭和62(1987)年に桂車庫に最新鋭機が導入されたことにより、廃され、以後車輪削正作業は桂車庫で行われている。 参考文献:阪急電鉄株式会社・諸河久:日本の私鉄 阪急(カラーブックス〔保育社〕,1998)p.128

民鉄初
 阪急がパンタグラフを初めて採用したのは大正11年(1922) 5月に、高速運転むきの木造51形のトロリーポールを外してパンタを取り付けたときである。『京阪神急行電鉄50年史』に「我が国に於けるパンタグラフの採用は、民鉄としてこれが初めてであろう」という記述があるとのことだ。

大手民鉄初
 カードスルーシステム(ラガールスルー)は大手民鉄では初めての試みである。

関西初
 関西で初めて大都市間を結ばず建設されたのは阪急電鉄(当時は箕面有馬電気軌道)である。

関西初
 阪急は車椅子用階段昇降装置JDエスカルを河原町駅に関西で初めて設置した。

関西初
 阪急は神戸本線が阪神淡路大震災から完全復旧した平成 7(1995)年 6月12日から、座席収納可能車両8200系を関西で初めて投入した。このような車両はJR東日本山手線でも平成 2(1990)年から走っている。こちら阪急では神戸線で朝の最混雑時に梅田方に2両増結して運用される。一部の乗客からは座らせないことから本車両を嫌う意見もあるが、ドアや窓を大きく(8000系と同じ3扉だが、扉扉間の窓数が8000系では3、8200系では2)し、液晶テレビを設置するなど、さまざまな通勤(痛勤)を快適にする配慮が施されている。

産業用としては関西民鉄初
 
西宮北口駅舎の屋上の太陽電池モジュール(2001/ 1/18より使用開始)は産業用としては関西民鉄初のものである。(TOKK 2001/ 3/ 1, http://www.hankyu.co.jp/linea/linea0301/infor1.htm より)

日本 2位
 冷房車は昭和45(1970)年製造の5200系から始まり、その後の新造車はもちろん冷房車である。在来車も冷房車に改造され、ついに昭和61(1986)年には冷房率100%を達成した。これは車両数の少ない阪神電気鉄道の昭和58(1983)年に継ぐ日本では二番目の記録である。

 

参考文献:橋本雅夫『阪急電鉄青春物語』草思社

NHK「その時歴史が動いた」2001. 1.24について...
「その時歴史が動いた 第36回 大衆の夢を形に 〜起業家・小林一三の挑戦〜」
http://cgi2.nhk.or.jp/sonotoki/syoukai/s301.html#ichizo 2001. 1.24 21:15-21:58 NHK総合で放送。

 


[INDEX]

©copyright 2003 TAKAGI-1       All Rights Reserved