http://umi.no-ip.com/simple/pdone.html?id=242 * http://umi.no-ip.com/simple/pdone.html?id=244 **
( * より) > DQNは生まれながらにしてDQNなのではない。社会の中にはDQNのサイクルがあり、 >普通の人でも「発達上の不利→教育上の不利」を経て、DQNになってしまうのである。 >そしてDQNは「雇用上の不利→経済上の不利」を経て、DQNを育てることになる。 DQN - 2典 : http://www.media-k.co.jp/jiten/wiki.cgi?%A1%E3%A3%C1%2D%A3%DA%A1%E4#i20 ( ** より) >「高学歴取得→高学歴の夫取得(または雇用上の有利)→経済上の有利→発達上の有利 >(高い文化レベル)→教育上の有利(十分な教育投資)→子どもの高学歴取得・・・」 >というDQN再生産とはまったく逆のことが起こる。エリートが再生産され、データが >示すように、高学歴の母親からは高学歴な子どもが再生産されるのである。 まず、日本史的アプローチ。 昔、女性への教育は優秀な子供を育てるため(良妻賢母)でした ***。 *** 少々関連して、現在の女性への教育には、強い子供を産む(妊婦に定期健診を受け させることによる出生児の健康増進)という役割が含まれています。 動機はどうあれ、この結果、日本は、古来より、世界にまれに見る女性の教養が 高い地域となったわけです。 さて、本記事のタイトルを「能力程度は世襲されるか」と"能力程度"としたのは、 親子が、それぞれ別の能力であるが、ともに秀でている場合を考慮したためです。 また"世襲"としたのは"遺伝"に加え、後天的な要素を含めるためです。* や ** も、 後天的な要素を全面に出しています。 後天的ということは、親の努力次第で、どうにでもなると。親は自らが能力に恵まれ なくても、子のために自らを磨かねばならないのでしょう。後生につながる"歯車"で、 別にいいじゃないですか。 しかし、「自らを磨」くというのは、自分で自分を磨かないといけないと思います。 そのことについては、私が大学一回のとき政治学のレポートを書いたときに考えました ので、以下に、そのレポートを引用します。 レポート「Affirmative Action は機会の平等に一致するか」 http://www.h5.dion.ne.jp/~wing-x/academic/aa/index.html **** −移転→ http://takagi1.net/academic/aa/index.html −移転→ https://takagi1.net/academic/aa/index.html http://www.h5.dion.ne.jp/~wing-x/academic/aa/index.html#s1 −移転→ http://takagi1.net/academic/aa/index.html#s1 −移転→ https://takagi1.net/academic/aa/index.html#s1 ( **** より) >私は機会の平等を次の関係で考える。ただし、[前提・仮定→結果]である。 > > i)能力の平均の均等 → ii)機会の平等 → iii)登用の均等 >[iii)登用の均等→i)能力の平均の均等]は [:親の「登用の均等」が子の「能力の平均の >均等」につながるならば] 、能力程度の継承性から考え、長期的に、つまり徐々に >機会平等の状態にしていくことが可能であり、そのためには「優遇により登用された >個人の能力の伸びが、登用されなかった個人のそれより大きい」ことが必要不可欠の >条件である。 > A.A. での優遇は「ある段階での能力」をより甘く評価することである。先の条件を >具体的にすると、「自分の能力を超えた教育機関での学習は、自分の能力にあった >教育機関でのそれよりも能力を増やすことができる」ということである。 > ここで、実例を挙げる。Thomas Sowell〔...〕によれば、A.A.の行われた1980年代、 >カリフォルニア大学バークレー校の黒人学生の数は急激に増えたのだが、卒業生の数 >は減った、とのことである。 > 一例に過ぎないが、A.A.が先の条件を満たしえないことはいえよう。