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2018/05/09
小学生の頃、協調性の乏しい私にほとほと手を焼いていた担任教師は、とうとう私を罵るようになってしまった。それを察して、父が初めて保護者面談に小学校に。そして私の問題行動を指摘する担任に「それは息子の長所です。どうか長所を潰さないでやってください。」
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posted at 06:04:51
短所としか思えない私の行動を「長所」と言われてキョトンとする担任。父は続けた。「世の中には、たった一人で孤独にこなさねばならない仕事がたくさんあります。ダムの保守点検、夜のビルの管理。息子は孤独に強い。孤独に強い人間がそうした仕事につかなければ、社会は回っていきません。」
posted at 06:04:55
「協調性を重んじる気持ちも分かりますが、社会はいろんな人間を求めています。もし協調性の高い人間ばかり育ったとしたら、誰が孤独な仕事を引き受けてくれるでしょう?そうなれば社会は回りません。息子のように孤独に強い人間も、社会は必要としています。だから長所を潰さないで下さい。」
posted at 06:04:58
短所としか思えなかった私の特徴を「長所」と説明され、驚いた担任は、クラスの中の問題児と感じていた子についても相談し始めた。欠点だとばかり思っていたことが、全てその子の「特徴」であり、「長所」であるという話に驚き、相談を次々重ねるので面談は1時間超に。廊下に何人も待つ親御さん。
posted at 06:05:01
次の日から、担任の私への接し方が変わった。無理に私をクラスのみんなと協調させようとせずに、私を注意深く観察するように。そして絶妙なタイミングで声かけするように。すると興味深いことに、協調性のなかったはずの私が、自然とクラスに馴染めるようになっていった。
posted at 06:05:06
マラソン大会で母を見かけた担任。近くに駆け寄り、「お父さんは心を二つも三つも持った方ですね!」と感動をこめてお礼を言った。両親の仕事の関係で引っ越しが決まり、学年の途中で転校することになると「せっかく篠原くんのことが分かりかけてきたのに」と残念そうに。
posted at 06:05:10
子どもに「短所」はない。ただ「特徴」があるだけ。その「特徴」は、他の子には見られない「長所」でもある。それが短所に見えてしまうのは大人の側が、ある価値基準を持ち、それを子どもに当てはめて評価するから。特徴が短所に見えるのは、価値基準にこだわるから。
posted at 06:05:15
「切る」という価値基準から見ればカナヅチは能無し。「クギを打つ」という価値基準から見ればノコギリは能無し。しかしカナヅチはクギを打ち、ノコギリは切るという「特徴」を備えるのだから、妙な価値基準を押し付ける方がおかしいというのは容易に察しがつく。しかし。
posted at 06:05:21
私たちは子どもに「価値基準」を当てはめて眺めることが多い。そのために子どもの「特徴」が短所に見えて仕方なくなり、それを矯めようとする。しかし「角を矯めて牛を殺す」という言葉にあるように、特徴を否定された子は自分に誇りが持てず、心を閉ざすようになる。
posted at 06:05:25
担任が父の話を聞いてから始めた「観察」こそが大切。その子を何かしらの「価値基準」に当てはめて断罪するのではなく、虚心坦懐に子どもの行動を観察し、その心理を推察する。するとその子にどんな特徴があり、なぜそういう行動をとるのか、理由があることに気がつく。
posted at 06:05:29
何となく理由が見えてきたら、「この子はこういう言葉を求めているのではないだろうか?」と推察できるようになる。そしてそれを試してみると、それまでとは全く異なる確率でその子の心に沿う形で言葉が届くようになる。短所が短所ではなく、特徴であったことに気がつく。
posted at 06:05:32
「荘子」に庖丁(ほうてい)という人物の話が出てくる。ダンスを踊るように一頭の牛をまるごと見事に解体する様子に驚いた王様。「さぞかしよく切れる刀なのだろう」と尋ねると、庖丁は意外な答えを返した。「切れば刃こぼれいたします」。
posted at 06:05:36
「普通の料理人は牛を切ろうとします。すると刃が骨や筋に当たり、刃こぼれいたします。私は牛をよく観察し、筋と筋の隙間、骨と筋の隙間を見つけたら、そこにそっと刃を差し入れます。すると自然に肉はハラリと離れるのです。私は切らないので刃こぼれせず、もう何年も研いでいません。」
posted at 06:05:39
切ろうとしない。切ろうとすると、それは目の前の牛を見ず、「解体された牛」という頭脳内のイメージに合わせようとしてしまう。目の前の牛を見ているようで見ていないから、筋や骨を無理に切ろうとしてしまい、刃こぼれしてしまう。
posted at 06:05:42
しかし庖丁はまず目の前の現実の牛を「観察」した。牛は一頭一頭、骨も筋も形が違う。観察していると、筋と筋の隙間、骨と筋の隙間が見えてくる。そうなってから刃を差し入れる。まず「観察」が大事なのだと、「荘子」は教えている。
posted at 06:05:46
子育ても同じ。頭脳内の「理想の子ども像」という「価値基準」にとらわれるのをやめ、子どもを虚心坦懐に「観察」すること。すると子どもの心と行動から「スジとスジのスキマ」が見えてくる。そこにそっと差し入れる「言葉」や「接し方」を差し入れるとよい。
posted at 06:05:49
もしあなたが、短所に思っているものがあったとしたら、それは短所ではなく特徴。カナヅチにノコギリの価値観(切れないのは能無し)、ノコギリにカナヅチの価値観(クギも打てないのは能無し)を当てはめてもムダなように、特徴を何かの価値基準で断罪するのはムダなこと。
posted at 06:05:53
腕のよい料理人は、見たこともない食材を「どう料理してやろうか」とワクワクする。そして「観察」する。生でかじってみたり煮たり焼いたりしてみたり、干したり水に浸けたり。様々な「実験」をしてその様子を「観察」し、食材の「特徴」を見極めようとする。すると自然に「あれに使えそう!」となる。
posted at 06:05:57
子育ても同様にやってみよう。遊ぶ姿、寝るまでの過程、駄々をこねたり笑ったり、様々な様子を「観察」する。何かの価値基準という「色眼鏡」を外して、子どもの様子を虚心坦懐に。すると我が子の「特徴」が見えてくる。その特徴を活かせば、そのまま「長所」になる。
posted at 06:06:05
「観察」するコツ。「楽しむ」こと。動物生態学者になったつもりで、我が子の「生態」を観察し、「新しい行動が観察されました!」と、我が子の「特徴」を洗い出す作業を楽しんでしまう。すると変にしか思えなかった行動にも、実に可笑しい「理由」があることも見えてくる。
posted at 06:06:08