【教えとしての「歴史」の実利】最後のセンター試験「日本史B」からの想起【2020/2/2】

こんにちは。高木です。本日は、2020年 令和2年 2月2日です。

今年 2020年でセンター試験は最後だということで、20年ぶりに、2020年1月18日実施の大学入試センター試験「日本史B」を、解いてみました。

恥ずかしながら、20年間、体系的な日本史の勉強をしてこなかった、その結果は36問中24問正解の 66点でした。

1月24日付の大学入試センター発表の中間集計の平均点が 65.45点なので、ほぼ平均点ですね。半分程度の受験生は、私よりもいい点をとるのですから、大学受験生は賢いです。彼ら・彼女らは、大いに頼りにすることができるでしょう。

さて、今年の「日本史B」の大問1では、2人の登場人物が、歴史を勉強する必要性について語っています:

チカコ:それにしても、なぜ歴史を学ぶ必要があるのかな? 歴史を学んだり研究したりしても、経済的な利益や技術革新には結びつかないから、そんなのは無駄だっていってる人がいたよ。

マサコ:それはとても貧しい発想だね。過去を顧みることは大切なことだし、だからこそ、過去の記録をまとめた歴史書が、昔からたくさん残されているんじゃないかな。

チカコ: 確かに。この間、学園祭で模擬店を出した時に、先輩たちが残してくれた記録を参考にしながら準備したんだけれど、これも過去の記録に学んでいることになるね。

センター試験の問題では、かなり軽く書かれていますが、私が考えるに、教科としての「歴史」の修得による利益は、簡単にいうと、歴史知識の活用になります。

アメリカ合衆国海軍の大学校 Naval War College の創始者であり、初代校長であるステファン・ブリーカー・ルース提督(Stephen Bleecker Luce)は、次のような考え方をしていました:

大熊 康之 : 戦略・ドクトリン統合防衛革命―マハンからセブロウスキーまで米軍事革命思想家のアプローチに学ぶ (かや書房, 2011) p.42.

 ルースのものの見方及び考え方のバックボーンは歴史であった。彼は、マコーレー(Thomas Macaulay, 19世紀のイギリスの歴史家)の「いかなる過去の出来事も(それ自体としては)重要ではない。その知識は、未来のための算段に導いてくれる場合にのみ価値がある」と、ボリンブローク(Viscount Bolingbroke, 17~18世紀のイギリスの政治家・哲学者)の「歴史は実例によって教える哲学である」との2つの見解に共鳴した。そしてルースは、「歴史研究の要訣は、特定の実例の〔特定の〕範囲内での扱いとそれらからの一般化へのプロセスに関する各人の考察にある」と結論している。

さらに、高校課程以下の場合には加えて、歴史知識の修得は、新しい歴史的情報を得た際に、その読み解き・体系化の土台になります。

つまり、高校課程以下の教科としての「歴史」は

 ・生徒が後に、新しい歴史的情報を得た際に、その読み解き・体系化の助けになるように、

 ・生徒が後に、問題がある状況に接した際に、問題解決の助けになる 歴史知識の一般化 を実施できるように、

体系的だが一般化前の知識をもった脳を大量生産しています。

即ち、歴史を頼みとできる、即ち歴史知識を「知らなかった」という言い訳を許されない人々を大量生産し、それらの人々が意見交換でき、一個の人より強力な人間集団により問題解決できる状況を生産します。

さて、センター試験の問題は、この大問の最後で、20世紀前半の歴史学者・津田左右吉(そうきち)の『古事記及び日本書紀の新研究』を登場させます。

  記紀の上代の物語は歴史では無くして寧ろ詩である。さうして詩は歴史よりも却ってよく国民の内生活を語るものである。

「記紀の上代(じょうだい)の物語」とは、日本書紀・古事記の神武天皇からの、現在の歴史では物語としてされている記述、「内生活」とは思想のこと です。

私は驚きました。現在の教科としての「歴史」では、神話や物語が排除されているからです。

かつての歴史書は、神話や物語からはじまっています。日本書紀の巻第一 の神代上(かみのよのかみのまき)第一段は、次のとおり始まります:

  古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。
  「いにしえに天地いまだ剖(わか)れず、陰陽分かれざりしとき、まろかれたること鶏子の如くして、ほのかにして牙(きざし)を含めり。」( 第7回 天地開闢の由来(天地初発から天之御中主神まで⑦) – 『古事記』を読む )

まだ天地、陰陽すら分かれていません。

神話や物語の実利は、一つには、縁起(えんぎ)としてです。縁起とは、事の起こりのことで、社寺・宝物などの起源・沿革や由来を記した書画を指します。2013年のNHK大河ドラマ『八重の桜』で、同志社女学校が、新島襄のものか、教会のものかで、新島八重と女学校の教師が対立するシーンがありました。事の起こりが、明らかにされていないと問題が起こります。

神話や物語の実利のもう一つが、津田左右吉が書いた、人というものを知ることにあります。

ここで、この動画の前半・後半と文脈を一つにまとめます。

動画の前半では、高校課程以下の教科としての「歴史」の実利は、

 ・生徒が後に、新しい歴史的情報を得た際に、その読み解き・体系化の助けになるようにすること

 ・生徒が後に、問題がある状況に接した際に、問題解決の助けになる 歴史知識の一般化 を実施できるようにすること

だと述べました。

動画の後半では、かつての歴史書は、神話や物語からはじまっており、神話や物語の実利の一つは、

 ・人というものを知ること

だと述べました。

ここで、動画の前半・後半を接着するために、歴史書『神皇正統記』を紹介します。

『神皇正統記』は、室町時代の初期、南北朝の時代に南朝・吉野朝廷の指揮官であった北畠親房によって書かれました。その目的は、幼ない南朝の天皇・後村上天皇に献上するためでした。即ち、帝王学の教科書として、歴史書があったのです。

動画の前半・後半を接着する観点は、帝王学の観点です。教えとしての「歴史」の実利は、帝王学の観点に集約することができます。

即ち、教えとしての「歴史」の実利は、

 ・後に、新しい歴史的情報を得た際に、その読み解き・体系化の助けになるようにすること

 ・後に、問題がある状況に接した際に、問題解決の助けになる〈歴史知識の一般化〉を実施できるようにすること

そして、

 ・人というものを知ること

です。最後の項目は、現在の教科としての「歴史」では触れられませんが、神話や物語を 我々は容易に触れることができます。

かつて帝王学であったものが、現代においては一般人の手の中にあります。歴史を頼みとできることに感謝し、歴史を活用しましょう。

最後まで、ご試聴ありがとうございました。