言語における高度の平凡性
記事ページ 発行: 2019年08月09日
フランスの文系バカロレア(大学入学資格試験)のディセルタシオン(課題論文)では、いかに正しく、過去の名文を引用するかが重要だという (参考: 鹿島 茂 : 悪の引用句辞典 - マキアヴェリ、シェイクスピア、吉本隆明かく語りき (中公新書, 2013) p.ii.)。
江戸時代の学校では、四書五経(論語など)が重視された。記憶の訓練や修養にはよいであろうが、それが有能な行政官を育むとは、私は かつて思えなかった。
最近になって考えていることは、過去の名文や四書五経が人々に与えたのは、The meaningではなく、A meaningだということだ。
重要な意味(The meaning)ではなく、意味のうちの一つ(A meaning)だということだ。
意味をもつ言葉は、概念をつなぐ。遠く離れた概念をつなぐ行為が、思考だ。よって、意味をもつ言葉は、思考のピース、レゴブロックのようなものなのだ。
いろいろなレゴブロックをもっていれば、いろいろな形を形づくれるし、何より早く作れる。そして、「早く」に「人数」や「時間」を掛け算すると、「大きなもの」・「よく準備されたもの」になるのである。
名文や四書五経は、広く意味が共有されていたので、「人数」がいても「時間」が経っても意味がブレない。名文や四書五経を引用するのは平凡かもしれないが、標準語がなく、統一的な教育が実施されない世界で、名文や四書五経は、不可能を可能にした。創造の中心に位置したのだ。高度の平凡性である。
対して、名文や四書五経以外の、創作された文は、非凡な創作物ではある。しかし、文は共有されないし、意味も正しく伝わらない。「サブ」カルチャーであったのだ。
非・情報社会での話ではある。しかし、現代においても、非・情報社会で情報社会を実現する方法を知っていることは、役に立つだろう。我々の周りは澄み切っているわけではない。
初出:
Facebook 2019/ 7/16
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