岡本綺堂 『半七捕物帳』 「あのときには全く汗になりましたよ」…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 岡本綺堂 『半七捕物帳』

現代語化

「あの時は汗だくになりましたよ」
「だって、あの長い坂を必死に駆け上がったんで、次の日は足が動かなかったですからね。それで、いろいろ調べてみるとこうなんです。前に言った通り、お丸っていう女は顔に似合わず、頭のいい女じゃなくて、今の言う不良少女みたいなタイプだったんです。奉公先の上州屋の息子はもちろん、他にもたくさんの男と関係持ってて、両国の薬屋の息子とも付き合ってたんです。そのうち、上州屋の息子が東山堂の娘に一目惚れして、300両の持参金で嫁にもらうことになったんで、お丸は自分の浮気は棚に上げて、それをすっごくうらやましがったあげく、とうとう東山堂の娘を毒殺しようって恐ろしいことを考えたんです。その毒薬は薬屋の息子をだまして手に入れて、筆に塗って巧みに娘に舐めさせたんですけど、相手を間違えて姉の方を殺してしまったんです。闇雲に毒をつけても、姉が舐めるか妹が舐めるかわかるわけないのに、ずいぶん無謀なことをしたもんですよ。悪いことをする人間には案外そういうのが多いんですけどね。このお丸も、そんなに頭がいい子じゃありませんでした」
「で、そのお丸はどうなったんですか?」
「お丸はちょっと用事があるって主人の家を出たんですけど、与之助のところに会いに行ったところ、弟がちょうど俺に捕まって番屋に連れて行かれた後で、与之助もなんだか嫌な予感がしたんで、店を抜け出してうろうろしてたら、お丸が探しに来たんです。お丸もその話を聞いてさすがに不安になったみたいで、与之助と一緒にどこかへ駆け落ちすることになったんですけど、こいつはやっぱり悪いやつで、中仙道を旅してる途中で、熊谷の宿屋で男の胴巻を持って逃げちゃったんです。男は一人ぼっちになって信州まで逃げたんですけど、妙義の町で俺らに追いつかれて、あと一歩で黒門に逃げ込むところを運悪く捕まったんです。本人ももうおしまいだって覚悟したのか、転んだはずみに噛んだのか、俺が襟首をつかんだ時には、舌を噛み切って口から真っ赤な血を吐いてました。元の女郎屋に連行していろいろ手当てしたんですけど、そのまますぐ死んじゃったんです。それで、死人に口なしで、お丸がどう言って与之助から毒薬をもらったのか、そこはわかりませんでした」
「お丸のその後はわからなかったんですか?」
「お丸はそれからどこをどうさまよったのかわかりませんけど、結局、上州の赤城山のあたりで全裸で死んでたみたいです。着物も帯も腰巻もなくて……。誰かに奪われて、絞め殺されたんでしょうね。死体の二の腕には上州屋の息子の名前が彫ってあったので、お丸だってようやくわかったんです。上州屋はそんなことで大損して、お金もたくさん使ったみたいですね。それで、舐め筆の娘との縁談ももちろん流れてしまいました。東山堂もそれからは評判が悪くなって、店もどんどん衰退していきました。“あそこの筆を舐めると死ぬ”なんて噂が広まっちゃって、商売になりませんでしたからね。妹の娘はその後、妾になったとかいう噂もありますが、本当かどうかは知りません。舐め筆で流行り出した店が舐め筆でつぶれたのも、何かの縁だったんでしょう」

原文 (会話文抽出)

「あのときには全く汗になりましたよ」
「なにしろ、あの長い坂を夢中で駈け上がったんですもの、その翌朝は足がすくんで困りましたよ。そこで、だんだん調べてみると斯ういう訳なんです。前にも申し上げた通りそのお丸という女は顔に似合わない、質のよくない女で、つまり今日でいう不良少女のお仲間なんでしょう。自分の奉公している上州屋の息子は勿論、手あたり次第に大勢の男にかかり合いを付けていて、両国の薬種屋の息子とも情交があったんです。そのうちに上州屋の息子は東山堂の娘を見そめて、三百両の支度金で嫁に貰おうということになったので、お丸は自分のふしだらを棚にあげて、ひどくそれをくやしがって、とうとう東山堂の娘を毒殺しようとおそろしいことを巧んだのです。その毒薬は薬種屋の息子をだまして手に入れたもので、筆に塗りつけて巧く娘に舐めさせたんですが、相手が違って姉の方を殺してしまったんです。むやみに毒をつけて置いても、それを姉が舐めるか妹が舐めるか判ったものじゃあないのに、随分無考えなことをしたもんですよ。悪いことをする人間には案外そんなのがたくさんありますがね。このお丸だって、あんまり利巧な奴じゃありません」
「で、そのお丸はどうしました」
「お丸は使いに行くと云って主人の家を出て、与之助のところへ逢いにゆくと、弟が丁度わたくしに引っ張られて番屋へ行ったあとで、与之助もなんだか薄気味が悪いので、店をぬけ出してうろうろしているところへ、お丸がたずねて来たという訳です。お丸もその話を聴いてさすがに不安心になって来たので、与之助をそそのかして何処へか駈け落ちすることになったのですが、こいつよくよく悪い奴で、なんでも中仙道を行く途中、熊谷の宿屋で男の胴巻をひっさらって姿を隠してしまったんです。捨てられた男は一人ぼっちになって信州へ落ちて行くところを、妙義の町でわたくし共に追い付かれて、もう一と足で黒門へ逃げ込むところを運悪く捕まったのですが、当人ももういけないと覚悟したものか、それとも転ぶはずみに我知らず咬んだのか、私が襟首をつかまえた時には、舌を咬み切って口から真っ紅な血を吐いていました。もとの女郎屋へ引き摺って来て、いろいろに手当てをしてやりましたが、もうそれぎりで息を引き取ってしまいましたよ。そういう訳ですから、死人に口無しで、お丸がなんと云って与之助から毒薬を受け取ったのか、その辺はよく判りませんでした」
「お丸のゆくえは知れなかったんですか」
「お丸はそれから何処をどうさまよい歩いたのか知りませんが、やっぱり上州の赤城の山のなかに素裸で死んでいたそうです。着物も帯も腰巻も無しで……。誰かに身ぐるみ剥がれて、絞め殺されたんでしょう。死骸の二の腕に上州屋の息子の名前が彫ってあったので、お丸だということがようよう判ったのです。上州屋もそれがために飛んだ引合を付けられて、ずいぶん金をつかったようでした。そんなわけで、舐め筆の娘との縁談も無論お流れになってしまいました。東山堂もそれからけちが付いて、店もだんだんにさびれて来ました。あすこの筆を舐めると死ぬなんて、云い触らす奴があるからたまりませんよ。妹娘はその後に洋妾になったとかいう噂ですが、ほんとうだかどうだか知りません。舐め筆ではやり出した店が舐め筆でつぶれたのも、なにかの因縁でしょう」


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