芥川龍之介 『好色』 「あの侍従と云ふ女には、さすがの平中もかな…

GoogleのAI「Gemini」を使用して現代語化しました。


青空文庫図書カード: 芥川龍之介 『好色』

現代語化

「あの侍従という女には、さすがの平中もかなわないらしいね」
「そんな噂だね」
「あいつにはいい薬だよ。あいつは女御更衣でなければ、どんな女にでも手をつける男だ。ちょっと懲らしめる方がいい」
「へぇ、君も孔子の弟子か?」
「孔子の教えなんて知らないよ。でも、女が平中のせいでどれだけ泣かされてるかくらいは知ってるんだ。あとひとつ言わせてもらうと、どれだけ夫が苦しんだか、どれだけ親が怒ったか、どれだけ家来が恨んだか、それだって知らないわけじゃない。そこまで迷惑をかける男は、当然恥さらしにしなきゃいけないよ。君はどう思う?」
「そうばかりもいかないよ。確かに平中一人のせいで世の中が迷惑してるかもしれない。でもその罪は平中一人が負うべきものじゃないだろ?」
「じゃあ他に誰が負うんだよ?」
「それは女に負わせりゃいい」
「女に負わせるなんて可哀想だよ」
「平中に負わせても可哀想じゃないか?」
「でも平中が口説いたんだから」
「男は戦場で勝負するが、女は後ろからしか斬らないんだ。殺人の罪に違いがあるのか?」
「やけに平中の肩を持つな。でもこれだけは確かだろう? 俺たちは世の中を苦しめないけど、平中は世の中を苦しめてる」
「それもどうかわかんないな。そもそも人間ってのは、どういう因果か知らないけど、お互いに傷つけ合わないと生きていけないもんだよ。ただ平中は俺たちよりも、ちょっと世の中を苦しめてるってだけ。この点は、そういう天才には避けられない運命なんだろうな」
「冗談じゃないよ。平中が天才と同じレベルなら、この池のドジョウも竜になれるよ」
「平中は確かに天才だよ。あいつの顔をよく見てみろよ。声聞いてみろよ。文章読んでみろよ。もし君が女だったら、あいつと一晩過ごしてみろよ。あいつは空海とか小野道風とかと同じように、生まれた時からとんでもない才能を持ってたんだ。それが天才じゃないっていうなら、この世に天才は一人もいない。その点では俺たちみたいな人間は、平中の敵じゃないよ」
「でもだな。でも天才は君の言うように罪ばっかり作ってるわけじゃないだろ? 例えば道風の字を見れば、そのすごい筆力に心を動かされたり、空海の経文を聞けば――」
「俺は天才が罪ばっかり作るとは言ってないよ。罪も作ると言ってるんだ」
「じゃあ平中とは違うじゃないか? あいつが作るのは罪ばっかりだぜ」
「それは俺たちにはわからないことだ。仮名をろくすっぽ書けない奴には、道風の字なんてつまらないもんだろ? 信心のない奴には、空海の経文よりも、傀儡の歌の方が面白いのかもしれない。天才のすごいところがわかるためには、こっちにもそれなりの素質がいるんだ」
「それは君の言う通りだけど、平中尊者のすごいところなんて、――」
「平中の場合も一緒だろ? ああいう好色な天才のすごいところは、女しか知らないはずだ。君はさっき、平中のせいで女がどれだけ泣いたかって言ったけど、俺は逆にこう言いたいね。女が平中のせいでどれだけ最高の喜びを味わったか、女が平中のせいでどれだけ生きがいを感じたか、女が平中のせいでどれだけ犠牲の尊さを知ったか、女が平中のせいで――」
「もういいよ。君の理屈だと、案山子も鎧武者になっちゃうよ」
「君のみたいに嫉妬深いと、鎧武者も案山子に見えちまうよ」
「嫉妬深い? へぇ、それは意外だな」
「君は平中を責めるくらいなら、淫らな女を責めろよ? 口では責めてるかもしれないけど、心の中では責めてないだろ。それはお互い男だから、嫉妬心が混じってるんだ。俺たちはみんな、心のどこかで、もし平中になれるものなら、平中になってみたいという野心を持ってる。だから平中は反逆者よりも、俺たちから憎まれるんだ。考えてみれば可哀想だろ」
「じゃあ君も平中になりたいのか?」
「俺か? 俺はなりたくないよ。だから俺は平中を、君が見るよりも公平に見られるんだ。平中は女が一人できると、すぐ飽きちゃう。それでまた別の女に、とんでもなく夢中になる。あれは平中の心の中に、いつも巫山の神女みたいな、人間離れした美女の姿が浮かんでるのさ。平中はいつも世間の女に、そういう美しさを見ようとしてる。実際惚れてる時は、見れたと思ってるんだ。でももちろん2、3回会えば、そういう幻影は崩れちゃう。だからあいつは女から女へ、次々とフラフラしてるんだ。しかもこの世の中に、そんな美女がいるわけないから、結局平中の一生は、不幸に終わるしかないよ。その点は、君や俺の方が、ずっと幸せだよ。でも平中が不幸なのは、つまり天才だからなんだよ。それは平中だけじゃない。空海や小野道風も、きっとあいつと似ていただろう。とにかく幸せになるためには、俺たちみたいな凡人が一番だよ……」

原文 (会話文抽出)

「あの侍従と云ふ女には、さすがの平中もかなはないさうだね。」
「さう云ふ噂だね。」
「あいつには好い見せしめだよ。あいつは女御更衣でなければ、どんな女にでも手を出す男だ。ちつとは懲らしてやる方が好い。」
「へええ、君も孔子の御弟子か?」
「孔子の教なぞは知らないがね。どの位女が平中の為に、泣かされたか位は知つてゐるのだ。もう一言次手につけ加へれば、どの位苦しんだ夫があるか、どの位腹を立てた親があるか、どの位怨んだ家来があるか、それもまんざら知らないぢやない。さう云ふ迷惑をかける男は当然鼓を鳴らして責むべき者だ。君はさう考へないかね?」
「さうばかりも行かないからね。成程平中一人の為に、世間は迷惑してゐるかも知れない。しかしその罪は平中一人が、負ふべきものでもなからうぢやないか?」
「ぢや又外に誰が負ふのだね?」
「それは女に負はせるのさ。」
「女に負はせるのは可哀さうだよ。」
「平中に負はせるのも可哀さうぢやないか?」
「しかし平中が口説いたのだからな。」
「男は戦場に太刀打ちをするが、女は寝首しか掻かないのだ。人殺しの罪は変るものか。」
「妙に平中の肩を持つな。だがこれだけは確かだらう? 我々は世間を苦しませないが、平中は世間を苦しませてゐる。」
「それもどうだかわからないね。一体我々人間は、如何なる因果か知らないが、互に傷け合はないでは、一刻も生きてはゐられないものだよ。唯平中は我々よりも、余計に世間を苦しませてゐる。この点は、ああ云ふ天才には、やむを得ない運命だね。」
「冗談ぢやないぜ。平中が天才と一しよになるなら、この池の鰌も竜になるだらう。」
「平中は確かに天才だよ。あの男の顔に気をつけ給へ。あの男の声を聞き給へ。あの男の文を読んで見給へ。もし君が女だつたら、あの男と一晩逢つて見給へ。あの男は空海上人だとか小野道風だとかと同じやうに、母の胎内を離れた時から、非凡な能力を授かつて来たのだ。あれが天才でないと云へば、天下に天才は一人もゐない。その点では我々二人の如きも、到底平中の敵ぢやないよ。」
「しかしだね。しかし天才は君の云ふやうに、罪ばかり作つてはゐないぢやないか? たとへば道風の書を見れば、微妙な筆力に動かされるとか、空海上人の誦経を聞けば――」
「僕は何も天才は、罪ばかり作ると云ひはしない。罪も作ると云つてゐるのだ。」
「ぢや平中とは違ふぢやないか? あいつの作るのは罪ばかりだぜ。」
「それは我々にはわからない筈だ。仮名も碌に書けないものには、道風の書もつまらないぢやないか? 信心気のちつともないものには、空海上人の誦経よりも、傀儡の歌の方が面白いかも知れない。天才の功徳がわかる為には、こちらにも相当の資格が入るさ。」
「それは君の云ふ通りだがね、平中尊者の功徳なぞは、――」
「平中の場合も同じぢやないか? ああ云ふ好色の天才の功徳は、女だけが知つてゐる筈だ。君はさつきどの位女が平中の為に泣かされたかと云つたが、僕は反対にかう云ひたいね。どの位女が平中の為に、無上の歓喜を味はつたか、どの位女が平中の為に、しみじみ生き甲斐を感じたか、どの位女が平中の為に、犠牲の尊さを教へられたか、どの位女が平中の為に、――」
「いや、もうその位で沢山だよ。君のやうに理窟をつければ、案山子も鎧武者になつてしまふ。」
「君のやうに嫉妬深いと、鎧武者も案山子と思つてしまふぜ。」
「嫉妬深い? へええ、これは意外だね。」
「君は平中を責める程、淫奔な女を責めないぢやないか? たとひ口では責めてゐても、肚の底で責めてゐまい。それはお互に男だから、何時か嫉妬が加はるのだ。我々はみんな多少にしろ、もし平中になれるものなら、平中になつて見たいと云ふ、人知れない野心を持つてゐる。その為に平中は謀叛人よりも、一層我々に憎まれるのだ。考へて見れば可哀さうだよ。」
「ぢや君も平中になりたいかね?」
「僕か? 僕はあまりなりたくない。だから僕が平中を見るのは、君が見るのよりも公平なのだ。平中は女が一人出来ると、忽ちその女に飽きてしまふ。さうして誰か外の女に、可笑しい程夢中になつてしまふ。あれは平中の心の中には、何時も巫山の神女のやうな、人倫を絶した美人の姿が、髣髴と浮んでゐるからだよ。平中は何時も世間の女に、さう云ふ美しさを見ようとしてゐる。実際惚れてゐる時には、見る事が出来たと思つてゐるのだ。が、勿論二三度逢へば、さう云ふ蜃気楼は壊れてしまふ。その為にあいつは女から女へ、転々と憂き身をやつしに行くのだ。しかも末法の世の中に、そんな美人のゐる筈はないから、結局平中の一生は、不幸に終るより仕方がない。その点では君や僕の方が、遙かに仕合せだと云ふものさ。しかし平中の不幸なのは、云はば天才なればこそだね。あれは平中一人ぢやない。空海上人や小野道風も、きつとあいつと似てゐたらう。兎に角仕合になる為には、御同様凡人が一番だよ……。」


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